福井県出身の演歌歌手・五木ひろしさん
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
演歌歌手になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供は何人?
今回は演歌歌手の五木ひろしさんをリサーチしてみました。
目次
五木ひろしの学歴・生い立ち・経歴
名前 五木ひろし
生年月日 1948年3月14日
出身 福井県三方郡
身長 173cm
血液型 A型
所属 五木プロモーション
小学校・美浜町立弥美小学校
中学校・美浜町立耳中学校
高校・・関西音楽院 明治大学付属中野高校
大学・・大学には進学していません
本名は松山 数夫(まつやま かずお)。
父親は鉱山技師でしたが辞め、建築用石材を扱う会社を経営。
2人の姉と兄がいる4人兄弟の末っ子。
幼稚園から小学校2年生までの3年間、三重県鳥羽市で暮らしました。
小学校は鳥羽市立加茂小学校に入学し、32年生の頃に福井県美浜町に引っ越し、美浜町立弥美小学校に転校して卒業しました。
小学5年生の時に父親がひと山当てると家を出て蒸発し、両親は離婚。
当初は『お父さんは山で死んだ』と言われていましたが、中学生の時に再会しています。
中学校は美浜町立耳中学校を卒業。
(現在は美浜町立美浜中学校)
中学は自宅の真ん前で、チャイムが鳴ってから駆け込んでも間に合ったといいます。
卓球部に入部しましたが、1年生は球拾いでろくに練習に参加出来なかったため、退部して軟式テニス部に入部。
テニス部は楽しくて熱中し、3年生の時には三方郡大会で優勝し、県大会に出場。
中学卒業後は、姉を頼って京都に移り、1963年3月に関西音楽学院に入学。
関西音楽学院は京都にあった音楽専門学校で現在は閉校しています。
1年後の1964年に5月に、本格的に歌手を目指し上京し、明治大学付属中野高校の定時制に入学しました。、
高校を卒業したかどうかは不明でした。
五木ひろしが演歌歌手になったきっかけは?
『僕が一番おふくろと一緒にいる時間が長かった。間近でその苦労を見ているから、早くスターになって母を楽させてやりたいという一心でした。』
引用 https://fujinkoron.jp/
小学生5年生の時に両親が離婚し、6年生になると兄は高校の寮に入り、年の離れた姉たちは独立。
母親との2人の生活になり、母親が朝は暗いうちから起き、田畑で農作業をし、それ終わると日雇いの肉体労働で夜遅くまで働くなど、苦労している姿を見ていたことから、1日でいいから、母親に思う存分寝てもらいたいと思っていたそうです。
歌は子供の頃から上手く、音楽好きだった父親の影響で、蓄音機から流れてきた歌をし自然に覚え、5、6歳の頃に大人の前で歌を歌うと、みんながうまいうまいと言ってお小遣いをくれたといいます。
中学1年生の夏休みに、地元の浪曲師の巡業に同行し、前座で歌うという機会に恵まれ、子供としては高額の500円という高額の報酬をもらったことで、自信が増しプロの歌手になって、母親に楽をさせてやるといことが目標になりました。
五木ひろし 5年で3度芸名を変更
中学を卒業して京都の関西音楽学院に入学して1年後に、松方弘樹さんの父親で俳優・近衛十四郎さんのマネジャーに、
『歌手にならないか』
と京都で声をかけられて1964年5月に上京。
紹介された作曲家の上原げんさんの内弟子になり、歌手を目指していた松方弘樹さんと共に歌を学びました。
上京から4ヵ月後の1964年9月に、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝し、1965年6月、松山まさるの芸名で『新宿駅から/信濃路の果て』で歌手デビュー。
17歳の時でした。
その後もシングルを6枚リリースしましたが、ヒット曲には恵まれず、北島三郎さんや都はるみさんなどのスター歌手の前座や、キャバレー回りした後、1967年4月に、一条英一に改名し『俺を泣かせる夜の雨/流れ星』で再デビュー。
シングル3枚を発売しましたがヒットはせず、1968年にはプロダクションが倒産。
仕事がなくなり食べる物にも困ったといいます。
同じアパートに住んでいたホステスの勧めで、銀座のクラブ弾き語りを始めたことがきっかけで、作曲家の遠藤実を紹介され、1969年12月に三谷謙に再び改名して、『雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌』で再デビューしましたがヒットはしませんでした。
しかし、銀座のクラブでの弾き語りの仕事のギャラは高く、サラリーマンの初任給3万円の時代に月収50万円もあったそうです。
五木ひろし よこはま・たそがれが大ヒット
1970年、故郷福井の放送局福井放送のプロデューサーの勧めで、よみうりテレビ制作のオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場。
『これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる』
との覚悟で挑み、10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンを獲得。
1971年3月に4つ目の新しい芸名を五木ひろしとして『よこはま・たそがれ』で再デビュー。
『よこはま・たそがれ』は発売から3ヶ月目にオリコンチャートトップ10に初登場し、7週間後には1位を獲得しました。
1971年の年間チャートでも6位にランクインし、
第13回日本レコード大賞・歌唱賞
第2回日本歌謡大賞放送音楽賞
なども受賞。
1971年末の第22回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たし、紅白歌合戦には2020年までで50回出場しています。
五木ひろしの結婚歴や妻は?
五木ひろしさんが結婚したのは1989年5月、40歳の時でした。
妻は元女優の和由布子(かず ゆうこ)さん。
1959年4月29日生まれで、年齢は11歳年下。
東京都豊島区出身で、1981年にミス着物の選ばれ、翌年の1982年に女優の道に進み、1983年NHKのドラマ『波の塔』で女優デビュー。
1984年5月公開の映画『化粧』で、
第8回日本アカデミー賞・新人俳優賞
を受賞しました。
舞台での共演で出会い、五木ひろしさんが一目惚れして、猛アプローチの末に交際がスタートし結婚しました。
結婚披露宴の費用は5億円といわれ、当時の芸能界最高額でした。
披露宴はテレビ中継され、視聴率27.3%を記録。
後に披露宴はテレビ局が全部セッティングしてくれたと話しています。
五木ひろしの子供は何人?
五木ひろしさんの子供は息子が2人と娘が1人の3人。
1990年に長男の松山大介(まつやま だいすけ)さん
1992年に次男の松山和真(まつやま かずさ)さん
1995年に長女の松山華菜子(まつやま かなこ)さん
が誕生しました。
長男の松山大介さんは結婚し、2022年3月の時点で4歳の孫がいると話しています。
次男の松山和真さんは、子供の頃から絵を描くの好きで、高校2年生の時にイギリスに留学し、イギリスの芸術大学を卒業。
2017年に東京都内で個展を開きプロの画家としてデビューしています。
長女の松山華菜子は2021年に結婚したことを明かしています。
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