クイズ番組『なるほどザワールド』などの司会を務め、人気司会者だった愛川欽也
生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?
芸能界入りしたきっかけは?
結婚歴や妻のうつみ宮土理さんとの馴れ初めは?
子供は息子で俳優?
晩年や死因は?
今回は司会者の愛川欽也さんをリサーチしてみました。
目次
愛川欽也の学歴・生い立ち・経歴
名前 愛川欽也
生年月日 1934年6月25日
没年月日 2015年4月15日(80歳没)
出身 東京府東京市豊島区巣鴨(現・東京都豊島区巣鴨)
身長 168cm
血液型 A型
所属 愛川企画室
小学校・豊島区立仰高小学校
中学校・私立中学校
高校・・浦和高校(偏差値74)
大学・・進学していません
本名は井川 敏明(いかわ としあき)。
10歳以上年の離れた姉がいる長男。
実家は印刷工場を経営。
小学校は豊島区立仰高小学校に入学、小学4年生の時に親元を離れて長野県上田市に疎開。
疎開先は寺で、食料も少なく厳しい生活だったといいます。
上田市に疎開中は北小学校に通っていました、
その後、埼玉、秋田、茨城などに縁故疎開、11歳の時に終戦を迎えました。
自宅が空襲で焼けてしまったことから終戦後は埼玉県に移り、中学校は埼玉の私立中学校に通っていたようです。
父親は中学3年生の時他界。
高校は浦和高校に進学。
埼玉県さいたま市浦和区領家にある県立の男子校で、現在の偏差値は74。
母親が昼夜働いて、学校に通わせていてくれたので、早く母親を楽にしてあげたいと思い、東大法学部に入って弁護士になろうと考えていました。
しかし、高校は中退して芝居の道に進んでいます。
愛川欽也が芸能界入りしたきっかけは?
高校1年生の時に通学路に開館した映画館にふと入ったことがきっかけで、フランス映画にハマり俳優を志し、『俳優座養成所』を受験。
結果は合格で、高校2年生から3期生として入所しました。
入ってみると、学校と同じように朝から夕方まで授業があったため、高校は中退しています。
愛川欽也の司会者として活躍
『愛川欽也』の芸名はドラマデビューした時にの役名に由来。
養成所卒業しして間もなく出演してドラマの役名が『愛川欽也』で、不良少年から更生していくこの役が気に入り、役名をそのまま自分に芸名にしました。
声優としても活動し、1962年にはアメリカのテレビドラマ『ルート66』で主役のマーティン・ミルナーの吹き替え、1970年にはアニメ『いなかっぺ大将』にニャンコ先生の声優を務めました。
俳優としては1975年から公開された映画『トラック野郎シリーズ』で主人公・一番星こと星 桃次郎を演じる菅原文太さんの相棒・やもめのジョナサンこと松下金造 役で人気を博し、ドラマ『十津川警部シリーズ』では長く亀井刑事 役を演じました。
司会者として注目されたのは、1971年から務めた深夜番組『パックインミュージック』(TBSラジオ)でパーソナリティで、若者を中心に人気を獲得。
1974年からは深夜番組『11PM』(日本テレビ)の司会を大橋巨泉さん共に1986年まで務め、司会者としての人気を確立しました。
司会者として大ブレイクしたのは1981年から放送が開始された『なるほど!ザ・ワールド』の司会に抜擢されたことでした。
初回視聴率は9.9%でしたが、翌年には20%を超え、1983年12月27日には36.4%を記録、全731回の平均視聴率は21.3%で大人気番組となりました。
1995年からは『出没!アド街ック天国』(テレビ東京)の初回司会者を担当しています。
愛川欽也の結婚歴
愛川欽也さんの結婚歴は2回。
最初の妻とは1957年頃に結婚、相手は俳優座養成所時代の同期の女優で通子さん。
通子さんの妊娠をきっかけに結婚し、通子さんは結婚を機に女優を引退しています。
離婚したのは結婚21年目の1978年11月でした。
愛川欽也と妻のうつみ宮土理さんとの馴れ初めは?
愛川欽也さんがうつみ宮土理さんと再婚したのは前妻の通子さんと離婚した翌日の、1978年11月18日でした。
馴れ初めは1972年から始まった歌番組『きんきんケロンパ歌謡曲』(テレビ東京)で2人で司会を担当。
その後、1975年に『シャボン玉こんにちは』(TBS)で再び共演したことで、急接近し交際に発展。
結婚後は『不倫奪略婚』とメディア、世間から猛バッシングを受けました。
愛川欽也の子供は息子で俳優?
愛川欽也さんの子供は息子と娘の2人。
2人とも前妻の通子さんとの子供です。
息子の晃一さんが1958年、娘の萠さんが1960年に誕生しています。
息子は井川晃一の名前で俳優でビューし、愛川欽也さんとは『十津川警部シリーズ』で共演していましたが、1990年代半ば以降は活動はしていないようす。
娘は佳村萠の名前でミュージシャンとして活動していました。
愛川欽也の晩年や死因は?
2014年冬に検査で肺がんが判明していましたが、本人の希望で自宅で療養し、病気は伏せていました。
2015年3月に長年出演してきた『出没!アド街ック天国』を急遽降板。
当時は病気との説明はなく、最後まで仕事復帰する可能性に懸けて治療していましたが、2015年4月15日に肺がんのため東京都内の自宅で死去、80歳でした