神奈川県出身の女優・有森也実さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
デビューしたきっかけは?
結婚歴や夫、子供は?
現在の活動は?
今回は女優の有森也実さんをリサーチしてみました。
有森也実の学歴・生い立ち・経歴
名前 有森也実
生年月日 1967年12月10日
出身 神奈川県横浜市
身長 162cm
血液型 O型
中学校・横浜市立洋光台第一中学校
高校・・明治大学附属中野高校
大学・・大学には進学していません
父親、母親、弟の4人家族で、父親は旅行会社に勤務し、母親は専業主婦。
父親はの実家は佐賀県鹿嶋市にある松岡神社で、有森也実さんが高校生の時に、宮司だった祖父の後を継ぐために長男だった父親は、単身で
故郷の佐賀に戻っています。
子供の頃は毎週家族でサンドイッチを持って、海の見える公園に遊びに行っていたといいます。
5歳からクラシックバレエを習い、中学までやっていました。
小学生の頃は引っ込み思案で、地味な女の子で体型はぽっちゃりだったそうです。
中学校は横浜市立洋光台第一中学校出身で、中学時代に芸能活動を始めました。
高校は明治大学附属中野高校の定時制を卒業。
中学卒業後に希望ヶ丘高校入学し、同高校に転校したとの情報もありました。
希望ヶ丘高校は、神奈川県横浜市旭区南希望が丘にある男女共学の県立高校で、偏差値は67。
明治大学附属中野高校は、東京都中野区東中野にある男女共学の私立高校。
定時制は2003年に廃止されましたが、それまでは多くの芸能人が通っていました。
2つ上の先輩には俳優の豊原功補さんがいて、有森也実さんは憧れていたと話し、豊原功補さんがバスケットボール部だったことから、自身もバスケットボール部に入部したそうです。
豊原功補さんが卒業する日にはバラをプレゼントしたといいます。
高校卒業後は大学などには進学していません。
有森也実がデビューしたきっかけは?
有森也実さんがデビューしたきっかけは、ファッション雑誌のモデル募集に応募したことでした。
『中3のとき、“どういうふうに作られているのかな”と気になって、1回だけでいいから撮影現場を見たいっていうノリで、モデル募集に応募したんです』
引用 https://jisin.jp/
中学3年生の時に10代少女向けファッションを主とした月刊女性誌『mc Sister』のモデル募集に応募し専属モデルとなりました。
『mc Sister』は年に1度一般公募オーディション開催していて、専属モデルはスターモデルと呼ばれ、今井美樹さん、高岡早紀さん、黒谷友香さんなども活躍しました。
有森也実 東京ラブストーリーでブレイク
専属モデルになった後は芸能事務所にも所属し、高校に入学後は振り袖のカタログモデルなどの仕事もしていました。
初めて出演したテレビCMは『タケダ漢方便秘薬』。
1984年、16歳の時にテレビドラマで女優デビューし、1986年1月公開の『星空のむこうの国』で映画デビュー。
同年8月公開の映画『キネマの天地』ではヒロインを務め、
第10回 日本アカデミー賞・新人俳優賞
第29回 ブルーリボン賞・新人賞
を受賞しました。
1991年1月から放送されたフジテレビ系ドラマ『東京ラブストーリー』に主人公・永尾完治(カンチ)の高校の同級生でメインキャストの関口さとみ 役で出演。
関口さとみは、織田裕二さん演じる永尾完治と江口洋介さん演じる三上健一のの間に挟まれて、優柔不断な態度をとってしまう魔性の女的な役でした。
東京ラブストーリーは最高視聴率32.3%を記録し、有森也実さんもブレイク。
しかし、カンチとリカの恋を邪魔する役でもあったため、アンチの女性も急増し事務所にカミソリが入った手紙が届いたこともあったといい、ドラマを見た友達にも『也実があんなに憎たらしいと思ったのははじめて』と言われてびっくりしたといいます。
有森也実の結婚歴や夫、子供は?
有森也実さんに結婚歴はなく、夫、子供はいません(2023年8月現在)。
『20代には自分からプロポーズしたこともありました。家庭をいちばんにしたいという思いから仕事を辞める覚悟もあったのですが、相手の方からしたら負担に感じたのかもしれません。結局、お別れしました』
引用 https://jisin.jp/
20代の頃は結婚願望は強かったようですが、30代になると仕事面での苦悩があり、40歳を過ぎた頃に『結婚をしたら子どもを持つ』という選択肢は少しずつなくなっていったといいます。
ただ、未婚を選んだわけでも、自立した女性を目指したわけでもないとも話し、いい人がいてタイミングもぴったり合ったら結婚するとも2023年6月のインタビューで話しています。
有森也実の現在
有森也実さんは2020年5月に37年間所属した、スペースクラフト・エンタテインメントから独立しフリーになっています。
独立は1年ほど前から考え、事務所には15歳から所属し、社長も父親のような存在でしたが一度離れてみようと思い独立を決めたそうで、社長と連名でテレビ各局に報告し、円満退社と報道されています。
仕事や取材の判断や、請求書を書くなどの事務作業も自分でやっているといいます。