長崎県出身の漫画家、タレント・蛭子能収さん。
生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?
漫画家、タレントになったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供は何人?
今回はの漫画家、タレントの蛭子能収さんをリサーチしてみました。
目次
蛭子能収の学歴・生い立ち・経歴
名前 蛭子能収
生年月日 1947年10月21日
出身 長崎県
身長 174cm
血液型 O型
所属 ファザーズコーポレーション
小学校・長崎市立戸町小学校
中学校・長崎市立戸町中学校
高校・・長崎商業高校
大学・・大学には進学していません
熊本県天草市生まれ、長崎県長崎市育ち。
父親は漁師で、一攫千金を狙う、伝説の漁師集団『阿波船団』のリーダーでした。
8歳年上の姉と5歳年上の兄がいる3人兄弟の末っ子。
父親は腕の良い漁師として知られ、兄も一緒に漁に出ていました。
小学校は長崎市立戸町小学校出身。
小学生の頃から漫画が好きで、貸本劇画誌『影』や『街』を愛読していました。
中学校は長崎市立戸町中学校出身。
中学2年生の時、不良グループに強制的に入れられ、使い走りやイジメを受けていたといいます。
中学の頃は会社の事務員になれればいいやくらいの人生の展望しかもっていなかったそうです。
高校は長崎商業高校出身。
長崎商業高校は、長崎県長崎市泉町にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は55。
高校時代は美術部に所属。
美術部に入ったのは運動部に入るつもりが全くなく、文化部の演劇部か美術部で迷い、兄に、
『美術部の方が楽でいいだろ』
と言われたことで美術部に入部したそうでが、入部後にグラフィックデザインに出会いハマったそうです。
商業デザイナーに憧れましたが、当時の長崎にはそういった仕事はなく、高校卒業後は地元の看板屋に就職しました。
蛭子能収が漫画家になったきっかけは?
蛭子能収さんは高校卒業後の1965年、看板屋に就職しましたが、絵を描くのは親方の仕事で、蛭子能収さんらの仕事は材木やトタン板を使って看板自体を作る仕事だったため、当初からいずれは会社を辞めたいと思っていたそうです。
この頃に看板店の同僚が主宰する漫画サークルに参加。
看板店には4年半勤務。
漫画サークルで『ガロ』1968年6月増刊号「つげ義春特集」を読み『ねじ式』に感銘を受け、1970年に上京。
上京後は出版社や映画会社への就職を目指しましたが、高卒を理由に断られ、再び看板屋の職に就きました。
入社した看板屋は上司がスゴくキツく、同僚も次々に辞めていき、蛭子能収さんも退職。
この頃に映画監督に憧れて青山にあるシナリオセンターに1年ほど通っていましたが、馴染めず、卒業制作に書いたシナリオも講師に酷評され、最初から最後まで一人で作業が出来る漫画家に転向。
1973年春、憧れの雑誌だった『ガロ』の発行元である青林堂に持ち込みを行いましたが、ストーリーは評価されたものの、絵が技術不足であるという理由で落選。
苦手なGペンをやめて製図ペンに乗り換え、3か月後、青林堂に2作目となる原稿を持ち込み、『月刊漫画ガロ』(青林堂)1973年8月号掲載の入選作『パチンコ』でプロの漫画家としてデビューを果たしました。
25歳の時の漫画家デビューでした。
蛭子能収 漫画家デビュー後
蛭子能収さんは漫画家デビューしたものの、青林堂の経営難のため、原稿料が支払われることはありませんでした。
ただ、原稿料については事前に編集長に、
『もし『ガロ』に入選して載ったとしても、原稿料は払えないんだけど、それでもいいですか』
説明を受けていたそうで、ガロに入選するのは夢だったことから蛭子能収さんは、
『ええ、お金なんて、いいです』
とノーギャラでも『ガロ』で漫画を描き続けました。
このことについて編集長だった長井勝一さんは後に、感謝の弁を述べていいます。
この頃、蛭子能収さんはちり紙交換やダスキンの営業などをしていました。
デビューから2年程で漫画の仕事がなくなり、1976年7月号掲載の『愛の嵐』を最後に以降『ガロ』での執筆は1981年6月号掲載『地獄のサラリーマン』まで5年間途絶え、漫画家としての限界を感じ、1979年頃に一時は長崎に帰る決意を固めました。
編集長の長井勝一に別れの挨拶をすると、
『単行本を出版して応援するから、あと一年頑張ってみて売れなかったら帰ればいい』
と説得され、同年に伝説的自販機本『Jam』に『不確実性の家族』で再デビュー。
1981年には初単行本である『地獄に堕ちた教師ども』が青林堂から刊行されたのを機に、33歳でダスキンを退社して漫画家として独立しました。
1982年頃からは、ニューウェーブ系漫画家の一人として『ガロ』以外に『宝島』『漫金超』『平凡パンチ』『ビックリハウス』『アリスくらぶ』『ペリカンクラブ』『季刊コミックアゲイン』『月刊スーパーアクション』などの媒体へも進出し、『ヘタウマ』という作風で注目されました。
蛭子能収がタレントになったきっかけは?
『実はきっかけは、舞台なんです。劇団の「東京乾電池」を主宰している俳優の柄本明さんが、「ガロ」に描いた僕の絵を見て、舞台のポスター制作を依頼してきたのです。』
引用 https://nextalk-uniadex.com/
1980年代中頃に、蛭子能収さんの絵を見た劇団東京乾電池の柄本明にポスター制作を依頼を受け、劇団に出入りするようになりました。
1987年5月に柄本明さんの以来で、劇団東京乾電池の舞台『台所の灯』に出演。
この舞台出演がフジテレビプロデューサーの横澤彪の目に留まり、同年から『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の文化人枠でレギュラー出演しました。
1989年にはテレビドラマ『教師びんびん物語II』(フジテレビ系)に喫茶店のマスター 役で出演。
以降は、独特のキャラクターで数多くのバラエティ番組に出演しました。
蛭子能収の結婚歴や妻は?
蛭子能収さんの結婚歴は2回。
最初の結婚は1972年。
25歳の頃でした。
妻は高校時代 よく通っていた画材屋の娘だった貴美子さん。
蛭子能収さんが上京後、1年間文通。
蛭子能収さんが24歳の時に貴美子さんも上京し、数回のデート後、
『俺と同棲しない?』
と遠まわしにプロポーズし、ボロアパートでの貧乏生活が始まり、結婚に至ったそうです。
2001年8月に蛭子能収さんががボートレース場へいる時に貴美子さんが倒れ、娘から連絡をもらい病院に駆けつけると、貴美子さん集中治療室に入っていて、すでに昏睡(こんすい)状態。
肺高血圧症だったそうで、担当の医師からは、
『助かっても植物状態になるかもしれません』
と言われ、蛭子能収さんは涙があふれて止まらなかったそうです。
倒れて2日後に妻の貴美子さんは意識を取り戻すことなく51歳で亡くなりました。
蛭子能収さん1人が好きで、それまで1人でも孤独というものを感じたことがなかったそうですが、妻の貴美子さんの死で、初めてとてつもない孤独感を覚えたそうで、しばらくはずっと泣いて過ごしたそうです。
蛭子能収の再婚した妻は?
蛭子能収さんが再婚したのは2007年1月。
59歳の時でした。
妻は一般女性。
年齢は19歳年下。
相手も再婚でした。
妻とは2003年4月に、女性週刊誌『女性自身』が企画した、お見合いパーティーで出会いました。
3年半の交際期間を経て再婚しました。
蛭子能収の子供は何人?
蛭子能収さんの子供は3人。
1972年に娘の史英さん
1974年に息子の一郎さん
が誕生し、2007年に再婚後すると妻には、連れ子の希和さんさんという娘がいました。