大阪府出身の富司純子さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚や夫は?
子供は何人?
今回は女優の富司純子さんについてリサーチしてみました。
富司純子の学歴・生い立ち・経歴
名前 富司純子
生年月日 1945年12月1日
出身 大阪府
小学校・大阪市立中道小学校
中学校・大阪市立本庄中学校
高校・四條畷学園高校 京都女子高校
大学・大学には進学していません
疎開先の和歌山県御坊市で生まれ、5歳の時に大阪府大阪市に移りました。
出生名は俊藤純子。
1男2女の末っ子。
父親は映画、ドラマプロデューサーの俊藤浩滋さん。
家にはほとんど帰って来ない人で、母親と祖母に苦労して育てられました。
小学校は大阪市立中道小学校、中学校は大阪市立本庄中学校を卒業。
7歳の時から日本舞踊を習い、中学時代は宝塚のファン。
中学卒業後は宝塚音楽学校を受験しようと、受験希望者が多く学ぶ、宝塚コドモアテネにも通い声楽やバレエも身に付けました。
ところが、父親が、
『宝塚は遠いし、夜道は危ない。もし何かあったらあかん。それにせめて高校ぐらいは出とかなあかん』
と反対し断念。
高校は四條畷学園高校に進学。
四條畷学園高校は大阪府大東市学園町にある男女共学の私立高校。
現在の偏差値は43~55。
高校2年生の時に、一家が京都に転居し、高校は京都女子高校に転校。
京都女子高校は京都府京都市東山区にある私立の女子校。
現在の偏差値は63~69。
大学には進学せず、高校在学中に女優デビューしました。
富司純子が女優になったきっかけは?
富司純子さんは中学時代に宝塚音楽学校の受験を断念しましたが演技の勉強を兼ね、四條畷学園高校時代には大阪の芸能プロダクションにも所属。
よみうりテレビの歌謡番組『ハイハイ、マヒナです』のカバーガールとして姉の允子さんと共に出演していました。
京都に引越し後、一緒に仕事をした俳優の名和宏さんの勧めで太秦まで松竹のカメラテストを受けに行くとになりました。
カメラテストを終え、歩いて数分の東映の撮影所の父親に会いに行った時、映画監督のマキノ雅弘さんにスカウトされました。
マキノ雅弘は富司純子さんの父親が家には帰らず、子供たちが苦労していることをある程度知っていたといいます。
富司純子さんの父親は娘が仕事場に出入りするのが嫌で猛反対しましたが、8歳年上のマキノ雅弘さんが、
『俺が責任を持つから、お前は黙っていろ』
と父親を屈服させたといいます。
富司純子 女優デビュー後
1963年6月公開の映画『八州遊侠伝 男の盃』で女優デビュー。
当時17歳で、芸名は藤淳子でした。
同年、朝日放送のコメディードラマ『スチャラカ社員』の若い女給役で出演しドラマデビューもしています。
1968年2月公開の映画『尼寺物語』で映画初主演。
出演映画55本目での主演でした。
22歳の時でした。
同年9月公開の映画『緋牡丹博徒』にも主演に抜擢され、主人公・緋牡丹のお竜(矢野竜子役)を演じ、主題歌も歌いました。
同映画は人気作となり、緋牡丹博徒シリーズは1972年までに8作が公開され、スターダムへ駆け上がり、東映の看板女優となりました。
1972年に結婚後一時芸能界を引退しましたが、1974年5月からフジテレビ系ワイドショー『3時のあなた』の水曜日の総合司会に就任。
当時は結婚後の本名・寺島純子の名前で出演していました。
1989年11月公開の映画『あ・うん』で芸名を富司純子に改め女優に復帰。
1999年1月公開の映画『おもちゃ』では、
第23回日本アカデミー賞・優秀助演女優賞
を受賞しています。
富司純子の結婚や夫は?
富司純子さんが結婚したのは1972年、
26歳の時でした。
夫は歌舞伎俳優の四代目尾上菊之助(現在は七代目尾上菊五郎)さん。
年齢は3歳年上。
1966年の大河ドラマ『源義経』で共演し出会いました。
富司純子さんは1972年3月公開の映画『関東緋桜一家』を最後に一時芸能界を引退。
同映画の正式はなタイトルは『純子引退記念映画 関東緋桜一家』。
文字通り引退を記念した映画で、今まで共演した俳優も含め、オールスターキャストで製作され、スターの引退映画はこれが最初で、その後も例がないともいわれています。
2年後の1974年にワイドショーの司会として芸能界に復帰しました。
富司純子の子供は何人?
富司純子さんの子供は2人。
子供は娘と息子です。
長女が1972年12月
長男が1977年8月
に誕生しました。
長女は女優の寺島しのぶさん、長男は歌舞伎俳優の尾上菊之助です。