必殺シリーズで主演を務めていたことで知られる藤田まことさんの生い立ち、経歴やの学歴は?
芸能界入りしたきっかけは?
結婚歴や妻、子供は?
今回は俳優の藤田まことさんをリサーチしてみました。
藤田まことの学歴・生い立ち・経歴
名前 藤田まこと
生年月日 1933年4月13日
没年月日 2010年2月17日(76歳没)
出身 東京府東京市豊島区(現在の東京都豊島区池袋)
身長 173cm
血液型 AB型
小学校・京都市立格致小学校
中学校・京都市立郁文中学校
高校・・堀川高校
大学・・進学していません
父親、母親、6歳年上の姉と4歳年上の5人家族。
本名は原田 眞(はらだ まこと)。
父親は無声映画時代のスター・藤間林太郎さん、母親は元芸妓でした。
母親は5歳のと時に他界、10歳の時に父親は再婚しています。
小学校3年生まで東京で生活し、その後、大阪府枚方市移りましたが、近所に兵器工場ががあり空襲の可能性があったため、京都府京都市に引っ越しました。
14歳の時に、以前住んでいた大阪府枚方市の長屋の大家に養子となりましたが、兵役についていた兄が戦死したことのが判明し、戻されました。
戻った頃には姉が肺病を患っていて、間もなく亡くなりました。
父親が家庭を顧みない人だったことから、藤田まことさんは、
『頼れるのは自分の才覚だけ』
との心境に至り、中学時代から進駐軍兵士の靴磨きなどをして、収入を得ていたといいます。
高校は堀川高校に進学。
京都府京都市中京区にある男女共学の公立高校で、偏差値は66~73。
高校時代に父親の藤間林太郎さんが所属していた一座の巡業に雑用係として参加、高校は2年生の時に中退しました。
藤田まことの芸能界入りのきっかけは?
父親の巡業に裏方とし同行していましたが、17歳の時に歌謡ショーの公演で、『旅笠道中』を歌い初舞台を踏み、その後は、舞台俳優としても舞台に立つようになりました。
当時は歌手志望で、10代の終わりには歌手を志して上京し、人気歌手だったディック・ミネさんの付き人をしながら、前座歌手として活動していました。
藤田まこと コメディアンとして活躍
前座歌手を務めた後、爆笑王と言われた兄弟漫才師の中田ダイマル・ラケットに誘われ、俳優として『ダイマル・ラケット劇団』に入団。
当時の大阪では俳優とコメディアンの区別がなかったといいます。
1957年に中田ダイマル・ラケット主演のコメディ番組『ダイラケのびっくり捕物帖』でテレビデビュー。
1961年、『笑いの王国』で水戸黄門、西郷隆盛、丹下左膳などさまざま人物に扮した生放送のCMで人気となり、1962年には、時代劇コメディー『てなもんや三度笠』の主演に抜擢。
出演の際に番組ディレクターから、
『主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好がつかない』
という理由で、当時、脇役で6本出演していた番組の全てを降板するように要求されたといいます。
藤田まことさんはこれをチャンスととらえ、要求をのみ番組を降板。
『てなもんや三度笠』は藤田まことさんの「当たり前田のクラッカー!」や財津一郎さんの「ヒッジョーにキビシ~ッ!」などのギャグが一世を風靡し、関西地区では平均視聴率は37.5%、最高視聴率60%を超えました。
しかし、1968年の番組末期には3%から4%台にまで低迷しています。
藤田まこと 必殺シリーズで主演
1973年から『必殺仕置人』に中村主水 役で出演。
当初は主演の山崎努さん演じる念仏の鉄を中心に描かれてしたが、徐々に中村主水を中心に物語が展開になると大人気になり、セリフの「あんたはもう死んでいるぜ」は流行語にもなりました。
1988年からは刑事ドラマ『はぐれ刑事純情派』で主演を務め、18年に渡り放送された人気ドラマになりました。
1998年からは『剣客商売』シリーズでも主演を務めました。
藤田まことの結婚歴や妻、子供
藤田まことさんが結婚したのは1959年26歳の時でした。
妻は一般女性の幸枝さん。
結婚時はまだブレイク前で、新居を建てた時には新居と自分を担保に入れて資金を借り、結婚式、披露宴では映像を収録し、その映像を結婚式場の宣伝に1年間使うことと引き換えに無料で行うことが出来たといいます。
子供は娘が2人と息子が1人の3人。
孫は花リナの芸名でシンガーソングライターをして活動しています。