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古田新太の嫁や娘、イケメンの若い頃や出身中学、高校、大学などの学歴や経歴

劇団☆新感線に所属する古田新太さん。

結婚しているようですが、嫁ははどんな方なんでしょうか?

子供は娘がいるようです。

出身中学や高校、大学などの学歴や経歴は?

今回は俳優の古田新太さんをリサーチしてみました。

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古田新太の結婚した嫁

古田新太さんが結婚したの28歳のとき。

嫁は元タレントの西端弥生さん。

西端弥生さんは1963年3月30日生まれで、古田新太さんの2歳年上。

西端弥生さんはニッポン放送のラジオ番組から生まれたユニット「ラジオっ娘」のメンバーとして活動後、1991年からからフジテレビ系で放送された『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演していました。

古田新太さんと嫁の西端弥生さんの馴れ初め・出会いは行きつけの飲み屋。

西端弥生さんが『ダウンタウンのごっつええ感じ』に出演中で、古田新太さんが無名の俳優だった頃、2人が行きつけだった飲み屋で出会いました。

最初に出会ったときは、西端弥生さんは彼氏がいて、彼氏と一緒に飲み屋にきていたそうで、このときは古田新太さんは、声は掛けられなかったといいます。

同じ飲み屋で再び出会ったのは半年後。

ひとりで飲みに来ていた西端弥生さんに、古田新太さんが声をかけたところ、ちょうど彼氏と別れた直後だと聞き、猛プッシュして交際、結婚に至ったそうです。

嫁の西端弥生さんは結婚後、子供が出来た1994年に『ダウンタウンのごっつええ感じ』も産休のため降板し、以降、復帰することはなく芸能界井を引退しています。

古田新太の子供は娘

古田新太さんの子供は娘がひとり。

名前はアロエさん。

1994年に誕生しています。

2013年に古田新太さんは娘について、

『18歳で浪人中』

『ウチの娘は、腐女子なんで。しかも歴女なんで。織田信長のファンなんで。「明智光秀がホントに悪いわけじゃないんだよ」とかって話になります』

と話しています。

古田新太さんの娘は舞台を観に来ることもあるそうで、ダメ出しをされるともあるそうです。

古田新太の若い頃

古田新太さんの若い頃の画像。

古田新太さんは若い頃はイケメンでかなりモテたそうです。

アゴの大きなほくろは現在はなく、1990年半ばから後半頃に除去手術を受けたようです。

古田新太の高校や大学などの学歴や経歴

古田新太さんは1965年12月3日生まれ。

兵庫県神戸市出身。

身長は173cm

父親は会社員

本名は古田岳史(たけふみ)

芸名の『古田新太』は亡くなった父親の本名に由来。

父親はの名前は『古田新』でしたが、公演のチラシに『古田新太』と間違って印刷され、そのまま『新太』になったそうです。

子供の頃になりたかった職業は、漫画家、プロレスラー、近所のお姉さんの影響でロックミュージックに興味を持ち、ロックミュージシャンなどになりたいと思っていたそうです。

プロレスラーはジャイアント馬場さんが大好きで、プロレスラーというよりも、ジャイアント馬場さんになりたかったとも話しています。

古田新太さんが小学5年生のとき、学校の行事で劇団四季の子供ミュージカルを観た際に、

『役者になれば色んな人間になることができる』

と思い舞台俳優になろうと思ったそうです。

古田新太さんはテレビや映画じゃなく、プロレスやコンサートのように、人前で何かやりたかったそうで、それで舞台俳優を目指したと話しています。

出身中学は神戸市立福田中学校

中学時代は演劇部がなかったため、バレーボール部に所属し、キャプテンを務め、生徒会では副会長を務めました。

趣味でバンドも組んでいたそうです。

バレーボール部は古田新太さんの代で創部したようで、バレーボール部に入部したのは、舞台俳優になるために必要な体力を付けたいという思いがあったといいます。

高校は伊川谷高校

伊川谷(いかわだに)高校は兵庫県神戸市にある男女共学の県立高校。

偏差値は49

高校時代は演劇部に所属。

中学時代からのバンド活動もしており、ライブハウスで演奏もしていました。

お笑い好きだった、古田新太さんはコントユニットを結成して活動していたこともあるようです。

大学は大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科

偏差値は45

古田新太さんはミュージカルを専攻。

大学時代は劇団『太陽族』に所属。

同大学は4年のときに除籍になっています。

除籍になった理由は学費の未納。

大学3年次以降の学費を払っていなかったそうですが、大学側の手違いで学費の未納に気付かず、未納が発覚したは大学4年のときで、卒業間際の除籍だったといいます。

大学は除籍になりましたが、卒業制作の舞台に参加し卒業式には出席したそうです。

その後、大学の先輩だった渡辺いっけいさんに誘われ、当時大阪芸術大学の学生劇団だった『劇団☆新感線』の公演『宇宙防衛軍ヒデマロ』に出演。

渡辺いっけいさんには『劇団☆新感線』の公演には2000人近い集客があり儲かるといわれ、1回だけの出演のつもりで参加しましたが、次の公演でも勝手にキャスティングされ、いつのまにか所属団員にされていたそうです。

しかし、看板俳優だった渡辺いっけいさんと筧利夫さんが同時期にに劇団を辞め、集客は激減し、全く儲からず古田新太さんは30代半ばまでノーギャラだったといいます。

後に、古田新太さんは『渡辺いっけいにだまされた』と笑い話にしています。

古田新太さんは『劇団☆新感線』に所属しながら、ラーメン屋などでアルバイトをし、声がかかれば片っ端から出演。

いろんな劇団の公演に参加し顔を売ったそうです。

古田新太さんは、多くの舞台に出演し、徐々に頭角をあらわし、関西学生演劇ブームに乗り、関西で深夜のコント番組に出演。

生瀬勝久さん(当時は槍魔栗三助)や羽野晶紀さんらとレギュラー共演し評判になったといいます。

1991年1月からニッポン放送で『古田新太のオールナイトニッポン』の放送が開始され全国区に進出。

当時、古田新太さんは25歳。

『オールナイトニッポン』はビートたけしさんの後継として木曜1部に出演し、過激な下ネタと自身の大好きなハードロックをかけまくり、人気をえましたが、下ネタが過激すぎて放送が終了する1992年10月までの1年9ヶ月で、スタッフが始末書を書かなかった週は2回しかなかったとも言われているようです。

1992年1月、NHKのドラマ『29歳』でドラマ初出演。

以降は舞台だけでなく、ドラマや映画でも個性派の名バイプレーヤーとして活躍。

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