東京都出身のコメディアン・萩本欽一さん。
生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?
コメディアンになったきっかけは?
結婚暦や妻は?
子供は何人?
今回はコメディアンの萩本欽一さんをリサーチしてみました。
萩本欽一の学歴・生い立ち・経歴
名前 萩本欽一
生年月日 1941年5月7日
出身 東京都
身長 164cm
血液型 A型
所属 浅井企画
小学校・さいたま市立高砂小学校
中学校・台東区立御徒町中学校
高校・・駒込高校
大学・・駒沢大学仏教学部
東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)出身。
父親はカメラ製造販売を経営。
兄2人、姉2人、弟1人がいる6人兄弟の三男。
東京都台東区稲荷町で生まましたが、父親の商売が成功し、埼玉県浦和市(現在はさいたま市)に家を建てたため転居。
小学校はさいたま市立高砂小学校に入学。
生活は裕福でしたが、5年生の時に父親の会社が倒産。
家には借金取りが連日押し寄せたといいます。
中学校は台東区立御徒町中学校を卒業。
生活は極貧だったそうです。
高校は駒込高校を卒業。
駒込高校は、東京都文京区千駄木にある男女共学の私立高校。
現在の偏差値は60~66。
卒業生には俳優の江口洋介さんがいます。
高校時代は学費と生活費と稼ぐために、毎日新聞配達のアルバイトをしていました。
高校卒業後はコメディアンを目指しました。
大学は2015年に73歳で、社会人入学制度で駒沢大学仏教学部に入学。
自身の認知症対策のために勉強していましたが、次第に勉強の面白さに触れ、興味を持った仏教を学ぼうと仏教学部にを受験したそうです。
1年生の時点では欠席日数ゼロ、成績はほぼS評価だったそうです
4年間通っていましたが自主退学しました。
退学の理由について自身が連載している週刊誌で、
『自分が全力で笑いに取り組める時間はそう長くはなく焦りを感じた』
と語りました。
萩本欽一がコメディアンになったきっかけは?
『とっさに「わかりません!」と答えた。すると次の瞬間、教室中が笑いに包まれた。「ドカーンとウケた。それがコメディアンになるきっかけですね」』
引用 https://www.sankei.com/
萩本欽一さんは中学時代に黒板に先生のあだ名を書くいたずらがはやっていて、普段は眺めているだけでしたが、ある日、いたずらっ子に唆されて初めて落書きを書いたそうです。
『やり慣れてないから僕だけ消せなかったの』
先生が来た時には、萩本欽一さんが書いた落書きだけ残っていました。
先生は『誰?これ書いたのは』と呼びかけ、知らんぷりをしていると口調がだんだん厳しくなり、とうとう『誰!』と怒鳴ったそうです。
萩本欽一さんが思わず立ち上がると先生は、
『萩本君ね、男の子ってこのくらいの勇気がなきゃだめよ』
と言って、落書きを消したそうです。
萩本欽一さんはそれまで、授業中にも手も挙げたことのなかったそうで、この先生の言葉に勇気をもらったといいます。
『あんまりにもうれしくて、先生が何か質問したら手を挙げようって決めたの』
先生が『これ分かる人?』と問いかけると、萩本欽一さんは恩返ししたい一心で『はい!』と手を挙げましたが答えはわからず、
『わかりません』
と答えると教室は大爆笑になり、この出来事で笑いをとる楽しさを知ったそうです。
当時、生活が極貧で借金取りに母親が頭を下げているを見て、悔しくてコメディアンになってお金をいっぱい稼いで、母親に大きな家をたてると決意したといいます。
中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充さんに弟子入りを請いましたが、
『せめて高校を出てからおいで』
と断られたそうです。
萩本欽一 コント55号結成
高校卒業後に東洋劇場に入団し、研究生としてコメディアンの卵となりました。
当初はうまくセリフが言えず苦労しましたが、先輩ににも助けられ、先輩芸人の真似を何度も繰り返し練習したそうです。
系列の浅草フランス座へ出向し、ストリップの幕間コントに出演した際に漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の坂上二郎)と知り合いました。
当初の坂上二郎さんの印象は、
『一緒にやったら食われるから嫌い』
だったそうです。
その後、萩本欽一さんは東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て、1963年春に『劇団浅草新喜劇』を旗揚げしましたが解散。
熱海の営業で考案したコント『机』を売り込もうと東京に戻ってきたところ、たまたま坂上二郎さんから連絡があり会うことになり、『机』のあらすじを語ったところ坂上二郎さんから、
『このコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは』
と提案され、一回の舞台契約だけで、1966年、『コント55号』を結成。
25歳の頃でした。
コント『机』を演じる、反応がいまひとつだったため役を入れ替えたところ好評を博し、の時支配人から『コント55号』と名付けられました。
コント55号は、前田武彦さんと組んだ1968年から放送されたフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』(フジテレビ系)で人気に火がつき、数多くのレギュラー番組を抱え、テレビを席巻。
1970年代後半以降にはンビでのコントやテレビ出演の機会が減少し、次第に個々の活動を中心とするスタンスに変わっていきました。
萩本欽一 視聴率100%男
萩本欽一さんは1971年、日本テレビ『スター誕生!』の初代司会者として単独での活動を開始。
1972年10月にはニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始され、人気番組となり、同じじフジサンケイグループのフジテレビで1975年4月から、テレビ番組『欽ちゃんのドンとやってみよう!』が放送開始。
この番組以外にも、テレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』『ぴったし カン・カン』、さらにはフジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』と多くに人気番組を抱え、その合計数字から『視聴率100%男』の異名を取りました。
萩本欽一の結婚歴や妻は?
萩本欽一さんが結婚したのは1976年。
35歳の頃でした。
妻は浅草の東洋劇場の踊り子だった澄子さん。
年齢は3歳年上。
出会ったの萩本欽一さんが18歳の時だったそうで、下積み時代を支え、テレビで人気絶頂になった1976年に結婚しました。
妻の澄子さんは2016年にがんが発覚。
抗がん剤や放射線治療で一時は進行が止まっっていましたが、2020年8月に82歳で亡くなりました。
萩本欽一に子供はいる?
萩本欽一さんの子供は3人。
子供は3人とも息子です。
1975年長男の一童(いちどう)さん
1978年に次男の越史さん
1980年に三男の征九郎さん
が誕生しました。
長男は入籍前に生まれています。