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泉谷しげるの妻は?子供はいる?足が不自由なのは?高校などの学歴や生い立ち・経歴

泉谷しげるさんは東京都出身のシンガーソングライター。

生い立ち経歴や高校などの学歴は?

漫画家を目指していた?

シンガーソングライターになったきっかけは?

結婚しているようですが妻は?

子供はいる?

足が不自由な理由は?

今回はシンガーソングライターの泉谷しげるさんをリサーチしてみました。

泉谷しげるの学歴・生い立ち・経歴

名前   泉谷しげる
生年月日 1948年5月11日
出身   東京都
身長   170cm
所属   ホリプロ

 

泉谷しげるの学歴

小学校・目黒区立烏森小学校

中学校・目黒区立東山中学校

高校・目黒高校

専門学校・代々木のデザインスクール

本名は泉谷茂(読みは同じ)

青森出身の両親の元で青森県県青森市で生まれ、3歳から東京都目黒区で育ちました。

父親は大工。

5人兄弟の次男。

小学校は目黒区立烏森小学校、中学校は目黒区立東山中学校を卒業。

小学3、4年ごろから絵を描き始め。手塚治虫さんが大好きで漫画家になりたいと思い、漫画家を描いていたこともありました。

ギターを始めたのは中学時代でした。

高は目黒高校に進学。

目黒高校は東京都目黒区祐天寺にある男女共学の都立高校。

現在の偏差値は62。

当時は坊主にしなければいけなかったことや体育会系のノリが嫌で高校は1週間でで自主退学しました。

中退後はいろいろなアルバイトをしながら、画家を目指して代々木のデザインスクールに通っていました。

泉谷しげる 漫画家を目指し投稿

泉谷しげるさんは漫画家を目指して投稿していいた時期がありました。

月刊漫画『こむ(COM)』の1969年2月号のまんが予備校のコーナーで9ページの漫画『トツゼン児』が採用。

手塚治虫さんから、

『テーマ100点 ストーリー70点 絵30点』

の評価を受けています。

当時21歳

『新譜ジャーナル』の972年5月号にも投稿。

16ページの漫画『わるい奴ら』が『いずみやしげる』名義で、東考社から刊行された短編集『ヤングパンチ・2号』および『暗黒の帝王たち』に掲載されています。

2010年2月には新宿髙島屋美術画廊で『泉谷しげるコミック展/マンガは爆発だ!!』を開催し、過去の作品しました。

泉谷しげるがフォークシンガーになったきっかけは火事

泉谷しげるさんが音楽と出会ったのは1963年、15歳の時でした。

友達から、

『ギターを持って立っているだけでいい』

と頼まれローリング・ストーンズのコピーバンドに参加。

これがきっかけでギターを始めました。

高校中退後に音楽に目覚めロックミュージシャンを目指して活動。

エレキギターやアンプなど機材も揃えましたが、1967年、19歳の時に自宅が家事で全焼。

ギターなど機材はすべて燃えてしまい、やむなくアコースティックギター1本で出来るフォークシンガーに転向しました。

この頃はまだ漫画家を目指そうと雑誌に漫画の投稿もしていました。

泉谷しげる 春夏秋冬が大ヒット

1971年11月、23歳の時にライブ・アルバム『泉谷しげる登場』でデビュー。

同年12月にシングル『帰り道』をリリース。

翌年の1972年4月のオリジナルアルバム『春夏秋冬』が大ヒット。

同年8月にシングル『春夏秋冬』もリリースされました。

この時は紅白には出場しませんでした、2013年の第64回NHK紅白歌合戦に出場し『春夏秋冬2014』を歌いました。

泉谷しげる 俳優として活動

泉谷しげるさんはが俳優として活動を始めたのは1977年の29歳の頃。

1977年5月公開の映画『僕は天使ぢゃないよ』二出演し、1978年4月から放送された日本テレビ系ドラマ『ハッピーですか?』に出演しています。

1979年6月に放送されたテレビ朝日系ドラマ『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』に犯人・小原保役で出演し、

テレビ大賞及び芸術祭優秀賞

を受賞し役者としても注目されました。

泉谷しげるの結婚した妻は?

泉谷しげるさんが結婚したのは22歳の時。

妻は一般女性。

泉谷しげると検索すると『離婚』の関連ワードが出てきますが、離婚したという情報はありませんでした。

泉谷しげるの子供は何人?

泉谷しげるさんの子供は娘が2人。

娘は結婚して2009年の時点で孫は3人いると話していました。

孫には『じいじ』と呼ばれていたようです。

泉谷しげるの足が不自由な理由は?

泉谷しげるさんの足の不自由な理由は幼少期にかかった感染症の後遺症のようです。

3歳の頃にポリオウィルスに感染し小児麻痺となり、足が不自由になる後遺症が残ったそうです。

ポリオ感染は1949年頃に全国各地で流行し、1960年には1年間の患者が5000名を超え、1961年には輸入生ワクチンの緊急投与が行われ、1963年からは定期接種が始り、現在までほぼ完全に制圧されているようです。

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