石川県出身の俳優・鹿賀丈史さん。
生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?
俳優になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供はいる?
今回は俳優の鹿賀丈史さんをリサーチしてみました。
鹿賀丈史の学歴・生い立ち・経歴
名前 鹿賀丈史
生年月日 1950年10月12日
出身 石川県
身長 180cm
血液型 O型
所属 ホリプロ
小学校・金沢市立材木町小学校
中学校・金沢市立野田中学校
高校・・金沢二水高校
大学・・大学には進学していません。
石川県金沢市出身。
本名は中野 薫且(なかの しげかつ)。
実家は北陸一のゴム風船会社で、裕福な家庭でした。
小学校は金沢市立材木町小学校を卒業。
小学生の時は虚弱体質で、拒食症になった事もありよく給食を残していたといいます。
小学4年生の時に少年合唱団に入団し、中学2年生まで所属。
中学校は金沢市立野田中学校を卒業。
中学時代はブラスバンド部に所属。
高校は金沢二水高校を卒業。
金沢二水高校は、石川県金沢市緑が丘にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は68。
高校時代は合唱部に所属し、テノール、指揮者として活動。
全国大会にも出場しています。
高校卒業後は、声楽家を目指し東京音楽大学や東京藝術大学などを受験しましたが不合格。
上京し浪人生活を送りましたが、大学に進学はしませんでした。
鹿賀丈史が俳優になったきっかけは?
『友人のすすめで劇団のオーディションを受けたことから、人生が大きく変わり始める。』
高校卒業後、東京で浪人中に、
『音大に受かっても大半の就職先は音楽の先生』
という現実を知り、打ちのめされホストクラブなどでアルバイトで歌うようになり、3年たった1972年にアルバイト仲間の友人に誘われ、一緒にオーディションを受けたのがきっかけで劇団四季へ入団。
俳優活動を始めました。
鹿賀丈史 デビュー後
鹿賀丈史の芸名は、劇団四季創設者の一人で代表だった浅利慶太さんが命名。
金沢出身ということで加賀に因み、『鹿のように俊敏になり、そして澄んだ目をしているように』という意味で“鹿賀とし、丈史はは語呂が良いことで名付けたといいます。
劇団四季に入団後は、児童向けミュージカルなどに出演した後に『ジーザス・クライスト=スーパースター』のジーザス役で主演デビュー。
同作品で注目を集めました。
1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』でドラマ初出演。
1980年に劇団四季を退団。
同年10月公開の映画『野獣死すべし』で映画デビュー。
1982年9月公開の映画『疑惑』で、
第6回日本アカデミー賞・助演男優賞
を受賞。
1984年の『麻雀放浪記』、1986年の『キャバレー』でも同賞を受賞しています。
鹿賀丈史 料理の鉄人の司会
1993年10月から放送された料理をテーマとしたバラエティ番組『料理の鉄人』(フジテレビ系)に、架空の団体『美食アカデミー』の主宰として出演し、バラエティ番組でも活躍。
『私の記憶が確かなら…』のセリフで知られました。
鹿賀丈史の結婚歴や妻は?
鹿賀丈史さんには結婚歴が1度あるようです。
結婚した時期は不明ですが、妻は元キャビンアテンダント。
妻と出合ったのは高校時代。
2017年に妻と離婚していたことが報道され、
『独りで気楽かな。そういう気持ちですね、今は』
とコメントしています。
その後は再婚しているとう情報はありませんでした。
鹿賀丈史に子供はいる?
鹿賀丈史さんには子供が1人いるようです。
子供は息子。
1982年に誕生したようです。