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勝新太郎の結婚歴や妻・子供は?俳優になったきっかけや経歴・学歴

「座頭市」シリーズに主演し「勝新」の愛称で知られた俳優の勝新太郎さんの経歴や学歴は?
俳優になったきっかけはジェームズ・ディーンを紹介されたことでした。
結婚歴や妻の中村玉緒さんとの馴れ初め、子供は?

今回は俳優の勝新太郎さんをリサーチしてみました。

勝新太郎の学歴・経歴

名前   勝新太郎
生年月日 1931年11月29日
没年月日 1997年6月21日(65歳没)
出身   東京都江東区
身長   170cm
血液型  O型

父親、母親、2歳年上の兄の4人家族。本名は奥村 利夫(おくむら としお)。
父親は長唄三味線方の杵屋勝東治さん(本名は奥村実)、2歳年上の兄は俳優の若山富三郎さん(本名は奥村勝)。
父親は力強いバチさばき、男っぷりのよさからファンの多い長唄三味線方でした。

小学校は新宿区立愛日小学を卒業。
東京都新宿区北町にある公立小学校で、当時は愛日国民学校でした。
卒業生には小説家の夏目漱石さんがいます。

中学校は旧制法政中学校に入学
東京都三鷹市牟礼四丁目にある私立学校で、1947年の学制改革で法政第一高校になり、2007年に法政大学高校に校名が改称されています。

中学校は中退し、父親と同じ長唄三味線方の道に進みました。
6歳の頃から父親に長唄と三味線を習い、10代の時には二代目 杵屋勝丸として、深川の芸者に教えていました。

俳優になったきっかけはジェームズ・ディーンとの出会い

1954年、23歳の時に父親と共にアメリカ巡業に行き、そこで立ち寄った映画撮影所で、同い年で若きスター・ジェームズ・ディーンさんを紹介されました。

『こんなよれよれのシャツを着たボサボサ頭が、スターになれるのか!よし!俺も日本に帰ったら映画スターになってやろう!』

幼少期から歌舞伎座で長唄三味線を弾く父親についていき、舞台袖から、当時の名優の芝居を観て芝居が好きだったこともあり、日本で俳優になることを決意。
日本に帰国後、大映京都撮影所と契約。1954年公開の市川雷蔵主演映画『花の白虎隊』で俳優デビューしました。

不知火検校でブレイク

歌舞伎役者からは映画俳優に転身し『花の白虎隊』主演デビューした市川雷蔵さんは同期。
大映の社長は勝さんを気に入り、市川雷蔵さんに次ぐ俳優として、主要な役与え続け1ヶ月に1本のペース主演映画も公開されましたが、デビューから6年間は思うように人気は出ず、映画館の館主達から、

『いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ』

と苦情が寄せられるほどだったといいます。

転機となったは1960年の主演映画『不知火検校』でした。
同映画は、盲人として生まれた杉の市は、子供の頃から悪事に関して異常な才能を持ち、按摩師をしながら、泥棒、詐欺、強請、姦淫、殺人と、ありとあらゆる悪事を働き、盲人組織における最高位の「検校」を狙うストーリー。
野心的なダーク・ヒーローの主人公を演じ、それまでの俳優としての評価を一新。新境地を切り開き映画はヒットしました。
しかし、当時は月に1本以上の映画に出演していため、『不知火検校』が公開された時には、明るく楽しいミュージカル風時代劇『元禄女大名』の撮影は終了し、さらに次の映画も撮影し、その先の映画も決まっていたことからすぐにその路線に移ることできまでんでした。

1961年に一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』もヒットしシリーズ化され、1962年の『座頭市物語』で不動の人気を獲得。
以降、1969年7月に市川雷蔵さんが病死するまで、2人で大映の二枚看板(カツライス)として活躍しました。

不祥事とプロダクション倒産

1967年に勝プロダクションを設立し、映画製作を開始。主演だけなくプロデューサーも務めました。

1974年にはテレビドラマ製作にも進出し、テレビ版『座頭市』では主演・監督を担当。
その演出は脚本を無視してその場で即興的に作っていくというもので、ストーリーはあってないようなものだったといい、合計4シーズン、全100話を製作しました。

以降はトラブルが多くなり、1978年にはアヘンの不法所持で書類送検、翌年の1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されましたが、黒澤明監督と揉めて降板。

『その原因は、勝が監督の領域にまで踏み込むような振る舞いをしたことにあったという。』

1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ)では、完全主義の勝さんの製作方針から赤字となり、ドラマ自体も不振で打ち切り。
この影響から1981年に12億円の負債を抱え、「勝プロダクション」は倒産。しかし、翌年には妻の中村玉緒さんを社長にした「勝プロモーション」を設立しました。

1989年には製作・監督・脚本・主演を務めた『座頭市』が公開され、配給収入11億円を記録しましたが、殺陣のリハーサル中には五右衛門役の息子・奥村雄大さん(鴈龍)の持っていた日本刀(真剣)が子分役の俳優の首に刺さり死亡する事故が発生。結局、この映画が勝さん製作の最後の映画になりました。

1990年1月16日、アメリカ合衆国ハワイ州のホノルル国際空港で下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮捕。
帰国した翌年には日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕。
裁判では懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受け、この事件以降は活動場を映画、ドラマから舞台に移しました。

勝新太郎の結婚歴や妻、子供

勝新太郎さんの結婚歴は1度です。
8歳年下の中村玉緒さんと結婚したのは1962年3月でした。

馴れ初めは映画での共演。
1955年に映画『かんかん虫は唄う』で初共演し、それから5年後の1960年に『不知火検校』で再び共演。この映画がきっかけで交際をスタートさせました。

撮影終了後、勝さんが俳優仲間と開いたパーティーに玉緒さんも参加。盛り上がる中、玉緒さんは勝さんのマネージャーに外に連れ出され、

『勝さんのこと好きですか?嫌いですか?』

と質問されたといい、玉緒さんは、

『好きか嫌いかでいうと、好きです』

と答えたといいます。すると一週間後にまたマネージャー経由で、

『勝さんが結婚を前提にお付き合いをしたい』

と申し出があったといい、勝さんが30歳、玉緒さんが22歳の時に結婚しました。

子供は娘と息子の2人で、1962年12月に長女、1964年8月に長男が誕生。
2人とも俳優で、娘の奥村真粧美さんは引退。
息子の鴈龍さんはドラマ、舞台を中心に活動していましたが、2019年11月1日に急性心不全のため55歳で亡くなっています。

勝新太郎の晩年や死因供

1996年8月にのどの痛みを訴病院に行くと、下咽頭癌と診断。手術は行わず、抗ガン剤投与と放射線治療を受けました。
3ヶ月後の11月には記者会を開き、会見の途中にで「酒もタバコもやる気がしないからやめた」と言いながら、タバコに火をつけ、ひと口吸って「タバコはうまいねぇ~」とパフォーマンスを披露。

『病状はすでに、たばこをひと口吸うだけでも息ができないくらいまで進んでいたし、実際に自宅からは全ての灰皿が撤去されていた。もちろん、酒なんか一滴も飲める状態じゃなかったです』

同年には大阪新歌舞伎座の舞台『夫婦善哉・東男京女』で中村玉緒さんと夫婦役を演じています。

記者会見から7ヵ月後の1997年6月21日に下咽頭癌にため、65歳で死去しました。

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