山口県出身の前田吟さん。
生い立ち経歴や高校などの学歴は?
結婚しているようですが妻はどんな人?
子供は息子で俳優?
今回は俳優の前田吟さんをリサーチしてみました。
前田吟の学歴・生い立ち・経歴
名前 前田吟
生年月日 1944年2月21日
出身 山口県
身長 170cm
所属 マエダ企画
小学校・牟礼小学校
中学校・国府中学校
高校・防府高校
大学・進学していません。
山口県防府市出身。
父親は現在の共同通信の記者、母親はタイプライターの教師でしたが、父親は妻がいて母親は独身で私生児として生まれました。
生後間もなく前田家に養子に出されましたが、4歳のときに養母が亡くなり、養父も13歳の時に亡くなりました。
その後は叔母に育てられましたが叔母も高校1年生の時に亡くなっています。
小学校は防府市立牟礼小学校、中学校は防府市立国府中学校を卒業。
小学4年生の時にまで養父と養母が実の両親だと思って育ちましたが、ある日、養父が不在の時に前田吟さんに小遣いを渡して帰った女性がいて、近所の人にその人が実母だと知らされ事実を知ったといいます。
実母が来たことを知った養父は怒り、貰ったお金を捨てたそうです。
中学時代には仲間と剣道部を創部。
高校は防府高校に進学。
防府高校は山口県防府市にある男女共学の県立高校で現在の偏差値は53~62。
高校は1年で中退。
高校は後に通信教育の高校に入学し、高校卒業の資格を取得しました。
中退後は実母の口利きで大阪の家具屋に一旦は就職。
その後は役者を目指し上京しました。
前田吟が俳優になったきっかけは?
前田吟さんが俳優になりたいと興味を持ったのは小学6年生の学芸会だったといいます。
それまでの学芸会ではその他大勢役でしたが6年生の時に『西遊記』の沙悟浄を演じ先生に、
『あなたの沙悟浄は、ものすごくうまい』
『将来は俳優になりなさい』
と褒められて俳優に興味を持ったそうです。
高校を『俳優になりたい』という思いから1年で中退後、大阪で就職していましたが演劇の勉強もしたくて俳優の養成所へ願書を出し、それがバレて会社をクビになっています。
その後は大阪の演劇学校に通いながら、通信教育の高校を卒業。
1962年、18歳の時に俳優を目指して上京しました。
前田吟の出世作は『男はつらいよ』
前田吟さんは上京後は東京芸術座研究所第1期生となり、1963年に劇団俳優座養成所に15期生として入所。
同期には原田芳雄さん、地井武男さん、栗原小巻さん、赤座美代子さんなどがいました。
1964年にドラマ『判決』で俳優デビュー。
1967年8月公開の映画『網走番外地 悪への挑戦』で映画初出演。
翌年の1968年1月公開の映画『ドレイ工場』で誠実な工員役を演じ、試写を見た映画監督の山田洋次さんの目に留まり、渥美清主演でテレビ放映されていたドラマ『泣いてたまるか』最終話の『男はつらい』に運転手の助手役で出演。
同ドラマは毎回脚本家が変わり、渥美清さんも毎回違う役柄で出演するというコンセプトで、山田洋次監督が自身で脚本を手がけた最終話の『男はつらい』を気に入り映画『男はつらいよ』を制作。
前田吟さんは1969年8月に公開された映画『男はつらいよ』で第一作から寅次郎の妹さくらに惚れる印刷工・諏訪博役として出演。
当時25歳でした。
その後も、さくらと結婚した博としてシリーズ50作全てに出演しています。
ドラマでは『渡る世間は鬼ばかり』に野田良役で出演し代表作です。
近年ではバラエティ番組やトーク番組にも出演しテレビ東京系のクイズ番組『二代目 和風総本家』2代目司会を2019年5月から放送が終了する 2020年3月まで務めました。
前田吟の妻
前田吟さんが結婚したのは1964年。
20歳の頃でした。
妻は芸術座の2学年上の女性。
結婚後すぐに子供が生まれ、養成所を出た時にはすでに子供がいたため仕事の方針は『稼ぐ』ということだったそうです。
芝居を上手くなろうとか、いい芝居をしようとかは全く考えず、働くことだけ考えたといいます。
当時の事務所に『子供がいると売れない』と言われ結婚後もしばらくは別居していたそうです。
前田吟の子供は息子で俳優
前田吟さんの子供は息子が4人。
長男はテレビ東京に勤務。
次男は俳優の前田淳さんで2時間ドラマなどに多く出演しているようです。
三男は建築関係の会社を経営。
四男はプロダンサー前田亨さん。
社交ダンス教室を開いています。