「ハンドパワー」のフレーズで超魔術ブームを巻き起こしたマジシャンのMr.マリックさんの学歴や経歴は?
マジックを始めたきっかけやブームになった経緯は?
テレビから消えた理由は?
結婚歴や妻、子供は?
今回はマジシャンのMr.マリックさんをリサーチしてみました。
目次
Mr.マリックの学歴・経歴
名前 Mr.マリック
生年月日 1949年1月1日
出身 岐阜県岐阜市
身長 160cm
血液型 B型
所属 マリックエンターテイメント
父親、母親、1歳年上の姉、5歳年下の弟の5人家族。戸籍上は1949年1月1日生まれですが、実際生まれたのは1948年12月29日。
誕生日が1月1日だったため、両親からはお年玉だけで、誕生日ケーキを用意してもらったことはなかったといいます。
父親が洋服の仕立て職人でテーラー、母親は専業主婦で父親の仕事を手伝っていました。
小学校は岐阜市立長良東小学校、中学校は岐阜市立伊奈波中学校を卒業。
小学生の時から引っ込み事案で、授業中に手を挙げることもできなかったといいます。
中学時代には剣道部に所属していました。
高校は岐阜工業高校を卒業。
岐阜県羽島郡笠松町常盤町にある男女共学の岐阜県立高校で、現在の偏差値は48~49。
卒業生にはファッションデザイナーの山本寛斎さんなどがいます。
高校卒業後は、ガス器具メーカーのパロマ工業(現・パロマ)に就職しました。
Mr.マリックがマジックを始めたきっかけ
マリックさんがマジックと出会ったのは中学2年生の時でした。マジックについて全く知りませんでしたが、中学2年生の時に名古屋から転校生がきて、その子のが本格的にマジックを習っていて、写生の授業の時に河原で石が消えるマジックを見せてもらって以来、マジックに魅了されたといいます。
『目の前ですごいことが起きたのでビックリして、魔法使いが突然現れたかのような気分でしたね』
以降、その子にマジックを教わるようになり、マジックを見せると友達が驚いて笑うのが嬉しくてマジックに夢中になり、高校時代には毎週末に名古屋に通い、デパートで手品グッズの実演販売を見てました。
当時は名鉄百貨店、名古屋松阪屋、オリエンタル中村百貨店(現・三越)の3ヶ所で実演販売が行われていて、その3ヶ所の実演販売を開店から閉店まで廻り、商品の種類や値段、使い方まで全部覚えていたといいます。
手品グッズ実演販売歴14年
マジシャンで食べていけるとは思わなかったこから高校卒業後はパロマに就職しましたが、半年経った頃に通っていたデパートのベテラン実演販売員辞めたことから、反対する両親を説得してパロマを退職。手品グッズの実演販売を始めました。
当初が売れませんでしたが、別の階で大根おろし器や包丁の実演販売をした人にコツを聞いて売れるようになったといいます。
名古屋のキャバレーでマジックショーに出演したことがきっかけで、本格的にプロのマジシャンになりたいと思うようになり、マジックのコンテストに出場し優勝も経験。
東海大会で1位となり、全国大会にも出場。1972年、21歳の時にはハワイで開催された世界大会に出場し、クロースアップ部門という目の前で芸を披露する種目で日本人として初優勝を果たしました。
『何を無鉄砲に目指していたんだろう、今の生活の中からここに辿り着く事は絶対ないと感じてマジックはもう辞めようと思ったんです。』
優勝したその日に、ゲストで来ていた一流マジシャンのマジックショーを見て感動したのと同時に「太刀打ちできない」とショックを受け、実演販売員を辞めて、一時はマジックから離れました。
『八重洲大丸のおもちゃ売り場でシーモンキーを売り出そうとしていた時で、僕に声がかかったんです。』
3ヶ月の無職期間を経て上京すると、年末商戦で「8つの手品」という手品セットが作られて実演販売をすると大ヒット。以降は渋谷の東急東横店と新宿伊勢丹で14年間デパートでマジックグッズの実演販売をしていました。
39歳でプロデビューし一躍ブームに
実演販売をしながらマジック用品専門も経営を始め、その店にテレビ局のスタッフが買いにきたことがきっかけで、「新春かくし芸大会」でタレントに手品を教えるようようにりましが、プロデビューはしていませんでした。
その頃がユリ・ゲラーの超能力ブーム真っ只中で、マジックはを見る人が減っていたことから、「マジックが出来る場所を自分で見つけなきゃいけない」と思い、当時品川にあったパシフィックホテルの最上階にあったナイトクラブに「ノーギャラでいいから」と自ら売り込み出演。
ステージのマジックは注目されませんでしたが、お客さんのテーブルの前に行ってマジックを披露すると歓声が上がり、他のテーブルの人たちも集まってきたといい、その後ホテルと出演契約を締結。いろんな芸能人もマリックさんのマジックを見に来るよようになったといいます。
日本テレビ系の深夜番組『11PM』のプロデューサーが来てくれたことで、1988年に同番組に出演。反響があり翌年の1989年にゴールデンタイムの『木曜スペシャル』に出演すると一気にブレイク。
ブームとなった「超魔術」という言葉は番組プロデューサーの
『これ、マジックだと言わずに黙ってやってたら、超能力に見えませんか?』
がきっかけで誕生。「ハンドパワー」はお客さんに、
『この不思議な力はハンドパワーですか?』
と言われたことがきっかけだったといいます。
Mr.マリックがテレビから消えた理由
テレビ出演で一気に時の人になりましたが、「超魔術」「ハンドパワー」という言葉が「超能力」と本気で信じる人と「インチキ」とバッシングする人が出てきて、一時はバッシングのストレスが原因で顔面麻痺になり入院。病院では「いつ完治するかはわからない」と言われ、症状が重い時にがしゃべることも難しい状態で、番組収録ではスタッフに事情を話し、ほぼ無言で収録を乗り切ったこともあったそうです。
まばたきもできませんでしたが、大きなサングラスをしていたためマスコミにバレずにすんだといいます。
症状がひどくなり、決まっていた収録をこなした後は仕事をセーブ。その後がテレビの世界からは離れ顔面麻痺がバレづらい、薄暗い会員制のバーでマジックショーをしていました。
数年後に、バーに来たテリー伊藤さんの誘いでバラエティ番組に出演しするようになり、『投稿!特ホウ王国』ではMr.マリックを逆さから読んだ栗間太澄(くりま・たすみ)という謎の郵便局員というキャラクターで出演。決め台詞は「手力です」などのセルフパロディが受け、再びテレビ出演が増えたといいます。
Mr.マリックの結婚歴や妻、子供
マリックさんが結婚したのは1974年、24歳の時でした。妻はマリックさんが実演販売していたデパートのおもちゃ売り場に務めていた女性。
『そこのおもちゃ売り場にいたのがカミさんです。なんて働く子だろう、飯も食わずにと思った。』
手品グッズの実演販売の売り場はおもちゃ売り場で、おもちゃ売り場の主任だったのが妻となる女性だったそうです。
子供は息子と娘の2人で、娘のるなさんは1980年5月に誕生。「LUNA」の名前でラッパー、歌手として活動。
2009年には自社レーベル「LILBOOTY RECORDINGS」を立ち上げ、2015年にはDancer NAZUKIとオリジナルブランドViiDAを立ち上げています。
息子は結婚していて、2019年には孫が3人いると話しています。