ダンサーとしてデビューし、演出家になった宮本亞門さんの学歴や経歴は?
演出家になったきっかけは?
結婚歴や妻は、子供は?
沖縄の別荘や前立腺がんについて。
今回は演出家の宮本亞門さんをリサーチしてみました。
宮本亞門の学歴・経歴
名前 宮本亞門
生年月日 1958年1月4日
出身 東京都中央区
血液型 O型
所属 ホリプロ
実家は銀座で喫茶店を経営。母親は元松竹歌劇団(SKD)のダンサーでしたが、宮本さんが21歳の時に、65歳で脳溢血で他界。
兄弟は姉と弟でがいます。
父親は母親が亡くなった後、宮本さんの知り合いだった25歳年下の女性と再婚。その後、弟が生まれたことから、弟は32歳年下です。
小学校は港区立白金小学校を卒業。
母親がダンサーだった影響で、幼稚園から日舞を習い、小学生のからは茶道も始めました。
小学生の頃の遊び場は、デパートの松坂屋や松屋の屋上で、当時は滑り台や熱帯魚、小動物がいたそうです。
中学校は大田区立田園調布中学校を卒業。
中学時代には仏像や神社仏閣に魅せられ、週末は貯めたお小遣いでひとりで夜行列車に乗り、奈良や京都の寺院や仏像を見て回り、中学を卒業する頃には日本美術史の研究家になりたいと思っていました。
趣味は建築物、日本画、西洋美術と広がりましたが、学校は孤立し友達はおらず、高校受験の頃にはストレスから肥満になっていたといいます。
高校は玉川学園高等部を卒業。
東京都町田市玉川学園六丁目にある男女共学の私立高校で、偏差値は59。
高校では男子寮に入り、過激なダイエットをして痩せることに成功。
高校では友達はいましたが、嫌われたくないがなめに努力し、その結果、自分と周囲のキャップに耐え切れなくなって高校1年から不登校になり、1年間引きこもり生活を送りました。
精神科に通院し、先生がありのままを受け止めてくいれたことで
『僕は僕のままでいいんだ』
と思えるようになって楽になり、3年生の1学期から高校に復学。
夏に玉川大学の学生の舞台『オリバー』を観て、演出をしていた先生が、宮本さんの高校入試の面接を担当した先生で、高等部の演劇部の面倒を見てた先生だったことから、舞台の感想を暑中見舞いに書いて送ったことがきっかけで、誘われて2学期から演劇部に入部。
好きだったアメリカのミュージカル映画『ゴッドスペル』の話をすると、学園祭の出し物が舞台『ゴッドスペル』に決まり、主演のキリスト役と振付を宮本さんが担当することになり出演。
数ヶ月前まで引きこもりだったことから、母親には、
『そんなことしたらアンタ、死んじゃうんじゃない?』
と本気で心配されたといいます。
当日の会場となった視聴覚室は満員になり、ラストの死んでゆく姿に、観客は感動して泣いていたそうです。
舞台は学校から賞をもらい、卒業式では宮本さんが答辞を読んだといいます。
高校卒業後は、玉川大学・芸術学部演劇専攻科に進学。偏差値は45。
高校で演劇部に導いてくれた先生が、玉川大学の演劇学科の教授に就任したことが入学の大きな理由だといいます。
入学が決まった後、宮本さんの玉川大学入学を知った先生から、年賀状が届き、
『これからキミをしごく。殻を破って違う人間にする』
と書いてあったといい、入学後は文面通りに厳しくしごかれたといます。
大学3年生の時に新聞で見つけたたミュージカルのダンサーオーディションに応募し合格。大学を辞めるつもりで応募したといい、合格後に両親に伝えると退学には大反対。
しかし、先生に相談すると、
『宮本君はどこか精神に弱いところがある。演劇の世界で生きていくつもりならば一刻も早く、荒波にもまれた方がいい』
と大学の中退に賛成してくれたことから大学は中退し、演劇の道に進みました。
宮本亞門がダンサーから演出家になったきっかけ
1978年にミュージカル『シーソー』でダンサーとしてデビュー。
1984年には『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』で振付師デビューし、以降はダンサー、振付師としても活動。
『「シカゴ」のボブ・フォッシーや「コーラスライン」のマイケル・ベネットなど、ブロードウェイでは、ダンサーから振り付け師、そして演出家という道を歩む人が何人もいて、亜門さんもそのルートを歩もうと考えていたそう。』
宮本さんもブロードウェイのダンサーのように、演出家を目指しましたが、プロデューサーたちからは、
『お前ダンサーだろ!そんなこと日本ではないんだよ!』
とみんなに否定されたといいます。
演出家としての仕事はもらえず、25歳の時にロンドンに留学。2年の留学で観た舞台は700以上だったといいます。
帰国後もうまくいかず、電話で年上の女性の友人に愚痴ると、
『1個ぐらい自分で作れるじゃん、誰がアンタが才能あるなんてわかんのよ!』
と言われて電話を切られ、「そうだ!まず全部自分でやればいいんだ」と思い、1987年に自分でポスターも書き、自分で企画した舞台『アイ・ガッド・マーマン』で演出家デビュー。
すると、翌年の1988年には同作品で、
文化庁芸術祭賞
を受賞、当時。30歳でした。
その後は演出家として活躍し、1993年にはネスカフェのゴールドブレンドのCMに出演。「違いのわかる男」として全国的に知られるようになりました。
2004年には ニューヨーク、オン・ブロードウェイで、ミュージカル『太平洋序曲』 (Pacific Overtures) を東洋人初のブロードウェイ演出家として手がけ、以降はミュージカル、ストレートプレイ、オペラ、歌舞伎等、ジャンルを越える演出家として活躍しています。
宮本亞門の結婚歴や妻、子供は?
宮本亞門さんに結婚歴はなくずっと独身で、妻、子供はいません。
これまで熱愛の報道もなく、恋愛や結婚、結婚願望について語ったという情報もありませんでした。
宮本亞門の沖縄の別荘とは?
宮本亞門さんは1999年、41歳の時に那覇空港から車で40分の海沿いに自宅を建設。リビングの前がそのまま海の「スーパー・オーシャンビュー」ででした。
しかし、2018年に売却することをテレビ番組で明かし、2020年に売却。
『横にホテルが出来たり、人が増えて残念ながら』
建設した時と周辺環境が変わったことで売却しましたが、沖縄への思いは捨てられず、2023年10月には沖縄の北部に土地を購入したことを明かし、「家をこれから考えている」と話しました。
前立腺がんを克服
宮本亞門さんの前立腺がんが発覚したのは2019年2月、61歳の時でした。がんが見つかったきっかけは『名医のTHE太鼓判!』 (TBS)に出演したことで、番組での検査で見つかりました。
『軽い気持ちでお受けしました。結果として大変ラッキーだったと思います』
血液検査の結果は微妙な数値でしたが、精密検査の結果、前立腺がんステージⅢになりかけているⅡだと診断。
医師からは「すぐにでも転移する状況になっています。」と言われ、治療法は熟慮の末、宮本ダヴィンチでの手術を選択。同年5月22日に前立腺の摘出手術を受け、6月1日に退院しました。