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森光子の結婚歴や夫、子供は?女優デビューのきっかけや経歴・学歴。晩年や死因

舞台「放浪記」で2000回以上主演を務めた女優森光子さん。
女優デビューしたきっかけは?
結婚歴や妻、子供は?
晩年や死因は?

今回は女優の森光子さんをリサーチしてみました。

森光子の学歴・経歴

名前   森光子
生年月日 1920年5月9日
没年月日 2012年11月10日(92歳没)
出身   京都府京都市
身長   153cm
血液型  B型
所属   オフィス・モリ

父親、母親、2人の兄、妹の6人家族。本名は村上 美津(むらかみ みつ)。
父親は紡績会社の御曹司、母親は祇園の芸妓で、実家の割烹旅館「國の家」伯父と共に経営していました。

父親は学生時代に母親を見初め、森さんが生まれましたが、家族の反対で結婚することはできず、私生児として育ちました。
2人の兄は若くして亡くなっているといいます。
父親は1ヶ月か2ヶ月に1度、自宅に来て食事をしていましたが、何を話したなどの記憶意はあまりないそうです。
母親は旅館を切り盛りし忙しく働いていましたが、仕事の合間には百人一首をして遊んでくれたといいます。
母親の勧めで6歳からは日本舞踊を習っていました。

小学校卒業後は京都府立第一高等女学校に入学。
旧制の女学校で、終戦後の学制改革で、都府立鴨沂高等校になっています。

女学校入学後、父親と母親が立て続けに肺結核で亡くなり、1年生の夏に母親が亡くなった後に1学期で女学校は中退。
中退後は女優を目指しました。

森光子が女優デビューしたきっかけ

森光子さんは幼少期から踊りや歌が好きで7歳の頃にはNHKのラジオ番組にも出演。
松竹少女歌劇団の水の江瀧子さんが好きで、実家の旅館の常連客だった坂東妻三郎さんの颯爽そした姿を見て、芸能界に憧れていました。
13歳で母親が亡くなったのを機に芸能に道に進むことを決意。
松竹少女歌劇団の入団を目指すもかなわず、従兄の嵐寛寿郎さんのプロダクション・寛プロに所属し、1935年、14歳の時に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』で女優デビューしました。

ラジオタレントとして活動

女優デビュー後、1937年に「寛プロ」が閉鎖すると映画会社「新興キネマ」に所属。
3年半で40本ほどの映画に出演しましたが、1939年に「映画法」が制定され、映画出演が制限され始めたため、1941年、21歳の時に歌手を目指して上京。
戦時中は日本軍慰問団で東海林太郎さんスター歌手らの前座歌手として慰問に参加。中国戦線や南方戦線を巡回しました。

終戦後はジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業しながら、並行して女優活動も行いましたが、1949年に肺結核に感染。
芸能活動を休止し京都で約2年半の療養後、大阪に戻り芸能活動に復帰しました憂が、なかなか仕事はなかったといいます。
1952年にNHK大阪放送局のラジオコメディー番組『エンタツちょびひげ漫遊記』に起用され、翌年の続編『エンタツの名探偵』にも出演。
1955年に朝日放送と専属契約を結び、ラジオ番組『漫才学校』にレギュラー出演すると人気を博し、関西のラジオタレントとしての地位を確立しました。

「放浪記」で初主演

ラジオ番組に出演しながら、黎明期のテレビ番組にも出演するようになり、1956年には朝日放送のコメディ番組『ダイラケのびっくり捕物帖』で初の全国ネットに出演。

1959年には大阪から東京に拠点を移し、1960年に舞台『がしんたれ』で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け、脚本の菊田一夫さんが発展させる形で『放浪記』の脚本を執筆。
森さんは主役の芙美子役に抜擢。初の主演で当時、41歳でした。

『放浪記』は初演にして8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞、テアトロン賞などを受賞。
1971年に再演が決定し、以降、生涯で2017回上演されました。

1968年からは「タケヤ味噌」のCMに起用され、2008年までキャラクターを務めました。
ドラマでは母親役を多く演じ日本を代表する「お母さん女優」として人気を不動のものとし、特に1970年から主演を務めた『時間ですよ』(TBS)で演じた下町の銭湯のおかみさん役は当たり役となりました。

1974年からはワイドショー番組『3時のあなた』(フジテレビ)の月曜日・火曜日のメイン司会を担当。1988年まで14年間出演。
紅白歌合戦の司会に1962年、1978年、1984年の3度起用され、1972年から1976年までは『輝く!日本レコード大賞』の司会も務めました。
2009年5月には『放浪記』の上演が2000回を迎え、同月に国民栄誉賞を受賞しました。

森光子の結婚歴や夫、子供

森光子さんの結婚歴は2回。最初の結婚は1946年、26歳の時でした。
ジャズ歌手として進駐軍を回っていた時、日系2世のアメリカ人軍属のリチャード・ウエムラさんにプロポーズを受け結婚。

しかし、森さんは芸能界に未練があったことから、渡米の予定をキャンセル。ウエムラさんはハワイに帰国し、短い結婚生活は終わりましした。

再婚したのは1959年、39歳の時でした。
夫は5歳年下のテレビプロデューサーで映画監督の岡本愛彦さん。

岡本さんは元NHKのディレクターで、1957年に退社し、ラジオ東京(現・TBS)に入社。
1963年にTBSを退社し、日活で映画監督として活動しました。
森さんがNHK大阪のラジオ番組に出演していた時に出会ったそうです。
結婚4年目の1963年に離婚。子供はいませんでした。

その後、再婚はしませんでした。

森光子の晩年と死因

2010年2月、6月に公演予定だった『放浪記』の公演を中止すると発表。
いつも受けていた健康診断で、主治医が、

『4時間にも及ぶ大作に連日出演することは、本人の体に差し障りが出る恐れがある』

と判断したことでの中止でした。
その後はマスコミんも取材などには応じていましたが、2010年秋に体調を崩して入院。

その後は入退院を繰り返すようになり、嚥下機能の低下から食べ物が喉を通らなくなり、2012年2月には誤嚥性肺炎を発症。
4月には胃ろう造設手術に踏み切り、経腸栄養剤の投与を続けましたが衰弱は進み、一時退院をしたものの2012年9月には再入院。

これ最後の入院となり、2012年11月10日、肺炎による心不全のため92歳で亡くなりました。

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