東京都出身のなぎら健壱さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
芸能界入りのきっかけは?
結婚や妻は?
子供は何人?
今回はシンガーソングライターのなぎら健壱さんについてリサーチしてみました。
目次
なぎら健壱の学歴・生い立ち・経歴
名前 なぎら健壱
生年月日 1952年4月16日
出身 東京都
身長 172cm
血液型 O型
所属 株式会社ルーツ
小学校・・葛飾区立末広小学校
中学校・・葛飾区立金町中学校
高校・・・本所工業高校
大学・・・大学には進学していません
専門学校・ヴィジュアルデザイン研究所
東京都中央区銀座出身。
本名は柳楽 健一(なぎら けんいち)
父親は宝石箱をつくる職人。
兄弟はなくひとりっ子。
小学校は中央区立京橋小学校に入学。
小学校3年生の時に葛飾区金町に引っ越し、葛飾区立末広小学校に転校して卒業。
中学校は葛飾区立金町中学校を卒業。
中学時代は文芸部に所属。
高校は本所工業高校を卒業。
本所工業高校は東京都葛飾区南水元にある男女共学の都立高校。
現在は夜間定時制のみの高校で、全日制は2007年に統合され、葛飾総合高校になっています。
現在の葛飾総合高校の偏差値は48。
高校卒業後は就職を考え、アルバイトをしながら専門学校・ヴィジュアルデザイン研究所でグラフィックデザインの勉強をしました。
なぎら健壱が芸能界入りしたきっかけは?
『1970年、岐阜の中津川で行われた全日本フォークジャンボリーに飛び入り出演したことをきっかけにデビュー。』
引用 https://www.sbrain.co.jp/
なぎら健壱さん中学生の時に『エレキギターブーム』が到来。
エレキギターはアンプも買わないといけないため、アンプのいらないアコースティックギターを購入。
中学時代にフォークギターを始め、高校時代にはォークグループ『シャンゼリゼ』を結成。
1970年、高校生の時に岐阜県で開かれた『中津川フォーク・ジャンボリー』に飛び入り参加し、これがきっかけで『怪盗ゴールデンバットの唄』がライブ盤に収録されレコードデビューを果たしました。
高校卒業後は就職を目指し、専門学校に通っていましたが、ラジオのオーディション番組を経て71972年にアルバム『万年床』でメジャーデビューしました。
なぎら健壱 大ヒットするも放送禁止
1974年1月にリリースした架空の相撲の取り組みで起きたハプニングと、それが引き起こしたパニックをネタにしたコミックソング『悲惨な戦い』が大ヒット。
歌詞の内容は、国技館からテレビ中継していた大相撲の取り組み中に力士の廻しが落ちる(不浄負け)という内容でしたが、大ヒットしスケジュールも決まった矢先に、放送禁止に指定。
日本相撲協会のクレームもあったとされていましたが、後に相撲協会からのクレームはなく、民放連が自主規制したと話しています。
1999年にフジテレビ『NONFIX 放送禁止歌』でノーカットで放送。
2006年に山下達郎のラジオ番組でフルバージョンで放送され、現在は『歌詞の内容もシャレで通じる』という理由から放送が可能になったと説明されました。
なぎら健壱 タレント、俳優として活動
『フォークだけじゃ、ダメだ、食えないってことに気がついたからです。』
引用 https://www.kinezuka.jp/
フォークのブームが次第に下火になり、世間の興味はフォークからニューミュージックへと変わり、それまで頻繁にあったコンサートがなくなり、レコードも出せなくなったといいます。
1976年12月公開の映画『嗚呼!!花の応援団 役者やのォー』で映画デビュー。
1987年4月、ドラマ『熱中時代スペシャル 帰ってきた北野広大』(日本テレビ系)でドラマデビュー。
またタレントとしても数々のバラエティー番組に多く出演しています。
なぎら健壱の結婚や妻は?
なぎら健壱さんが結婚したのは1977年頃のようです。
当時、25歳ぐらい。
妻は元デザイナーで、年齢は同い年という情報がありました。
なぎら健壱の子供は何人?
なぎら健壱さんの子供は息子1人ます。
息子は柳楽詠人さん。
1979年3月に誕生しました。
柳楽詠人さんヒップホップユニットのREMのボーカルであるeito.08として活動。
現在はなぎら健壱さんのプロデュースするもんじゃ焼き屋『下町もんじゃ焼 らくらく』を経営しているようです。