ヒット曲「あなたにあげる」で知られ、4年連続で紅白歌合戦に出場した経験もある仁支川峰子さんの経歴や学歴は?
演歌歌手デビューしたきっかけは?
事故や那須の別荘が那須の別荘が流されたことでも話題になりました。
結婚歴や夫、子供は?
火野正平さんとの関係は?
今回は演歌歌手の仁支川峰子さんをリサーチしてみました。
目次
仁支川峰子の学歴・生い立ち・経歴
名前 仁支川峰子
生年月日 1958年5月23日
出身 福岡県田川郡赤村
身長 163cm
血液型 A型
所属 スタッフ・アップ
赤村は福岡県の東部の福岡県田川郡赤村に、9人兄弟の末っ子として誕生。
生まれた頃には周辺に家は2軒しかなく、実家は藁葺き屋根で、電気が引かれたのは6歳、テレビが来たのは8歳の時でした。
水は井戸水、風呂は五右衛門風呂で生活は貧しかったそうです。
『1歳半で親に捨てられて、おばあちゃんの存在が私を養女にしてくれて育ててくれた』
物心つく前に祖父母の養子になり、祖母が母親で、実母は戸籍上は姉で「姉ちゃん」と呼んで育ちました。
小学1年生の時にたまたま事実を知りましたが、小学6年の時に実母が再婚するまで、祖母や実母から事実を教えてもらうことはなかったそうです。
事実を知っていても、祖母が母親で実母は姉のような存在で、実母に母親という感情はないといいます。
『貧しい家庭に加えて、祖母がギャンブルに熱中するあまり、母親が置いていったミルクを与えず、大人が食べる塩せんべいだけを与えていたため、栄養失調で死にかけたこともあったとか。その影響で5歳まで立って歩くことができなかったんです』
幼少期は栄養状態が悪く、病弱で5歳まではうまく歩くこと出来なかったそうで、肺を鍛えるために山に向かって毎日歌を歌わされていたそうです。
入学した赤村立赤小学校は往復で8kmの距離で、毎日歩いて通ったこともあり、中学時代には元気になったといいます。
中学時代に芸能界入りし15歳で上京。
高校は代々木高校に進学しました。
東京都渋谷区上原にあった定時制の都立高校。多くの芸能人を輩出しましたが、烏山工業高校などと統合されて、世田谷泉高校になり、2004年閉校になりました。
高校は中退しています。
仁支川峰子が演歌歌手デビューしたきっかけ
房弱だったため幼少期から山に向かって毎日1時間演歌を歌わされ、遊びたいさかりで不満でしたが、6歳の頃からは「のご自慢大会」に出場するようになり、毎回入賞していました。
中学時代は生活も貧しかったことから、商品目当てで「のど自慢大会」出場し家計を助けていたといいます。
デビューのきっかけは1973年、中学3年生の時に出場した『第3回全日本歌謡コンテスト』でした。
このコンテストで優勝し、芸能界入りが決まりました。
デビュー曲が大ヒット
1974年7月、16歳で『あなたにあげる』で演歌歌手デビュー。
『あなたにあげる』は7月の発売当初は振るいませんでしたが徐々に順位を上げ、11月25日にはオリコンチャート8位に初ランクイン。
12月16日にはついに1位を獲得。
オリコンチャート100位以内には35週間ランクされ、自身最大にヒット曲になり、同年に、
第2回FNS歌謡祭・最優秀新人賞
第5回日本歌謡大賞放送音楽・新人賞
第16回日本レコード大賞・新人賞
など多くの新人賞を受賞し、翌年の1975年には第26回紅白歌合戦に初出場を果たし、以降は4年連続で出場しました。
当時は給料制で紅白出場が決まると月給30万円が150万円に激増し、紅白出場後は250万円になったと話しています。
紅白落選をきっかけに活動を歌手から女優にシフトし、1977年10月公開の映画『人間の証明』で女優デビュー。
ドラマでは『桃太郎侍』、『暴れん坊将軍II』、『鬼平犯科帳』など時代劇で活躍。1987年の映画映画『吉原炎上』での最後の場面ではヌードを披露し話題になりました。
西川峰子の芸名で活動していましたが、2009年12月24日放送のフジテレビ『くちこみっ!大捜索2!!本当に凄い(秘)占い師テレビ解禁スペシャル!!』の企画で「西川」から「仁支川」に改名しました。
事故や那須の別荘
仁支川峰子さん1990年、32歳の時にマネージャーの運転する車が移動中に、車体が3回転半する大事故を起こし入院。
医師には「3ヶ月入院」と診断されましたが、仁支川さんは4~5で退院し、首にコルセットを巻きながら舞台に立ちました。
1998年、40歳の時には完成してわずか1ヶ月だった那須高原の別荘が、台風4号の豪雨で流されました。
その後、同じ場所に同じような別荘を建てています。
『9LDK、355平米ある豪邸で、2億円かけて建てたとも言われていた』
再建しましたが、別荘に訪れる機会が少なくなり、売却したそうです。
仁支川峰子の結婚歴や夫との馴れ初め、子供
仁支川峰子さんの結婚歴は1度、離婚歴も1度です。
結婚したのはは2001年1月、42歳の時。
夫は7歳年下で、隠岐島在住の海士町会議員員の村上隆さん。
村上さんの実家は8代にわたり後鳥羽上皇の墓守を務めてきたという、島きっての旧家でした。
馴れ初めはテレビ番組での共演。仁支川さんがテレビ番組のロケで隠岐島を訪れたことで出会い意気投合。
再び仁支川さんは隠岐島を訪れ、6回目のデートで村上にプロポーズを受け結婚。
出会ってから8ヶ月での結婚でした。
離婚したのは結婚8年目の2009年4月。
『結婚する時に「浮気したら離婚する」というのが約束でしたから』
離婚の原因は夫の「浮気」でした。
子供はいませんでした。
子供を望み、不妊治療を行っていましたが、授からなかったといいます。
仁支川峰子と火野正平の関係
仁支川峰子さんと火野正平さんは1981年頃に、不倫騒動でマスコミを賑わせていました。
『私、7番目の愛人って言われたんですよ、その頃』
ドラマの打ち上げで一緒に飲み明かし、男女の関係になり、その後「7番目」と言われたとい、8番目が現れたことを知ると、その相手との証拠を調べて別れたといいます。
当時、仁支川さんは23歳、火野さんは32歳で一般女性と結婚していました。、