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尾木直樹(尾木ママ)の結婚歴や妻、子供は?教員時代やブレイクしたきっかけ。学歴・経歴

元教員で「尾木ママ」の愛称で知られる教育評論家の尾木直樹さん。
学生時代の経験から教員は大嫌いでしたが、教員になったきっかけは?
教員時代はどんな教師だった?
尾木ママとしてブレイクしたきかっけは?
結婚歴や妻、子供は?

今回は教育評論家の尾木直樹さんをリサーチしてみました。

尾木直樹(尾木ママ)の学歴・経歴

名前   尾木直樹
生年月日 1947年1月3日
出身   滋賀県米原市
血液型  A型

父親、母親、姉、弟の5人家族。父親は気象庁の気象予報官、母親は小学校の先生でした。
父親からは怒られても殴られたことは1度もなく、母親には怒鳴られたこともなかったといいます。

幼少期から母親が本を与えてくれたことから、本が大好きで、図書室の本は辞書以外は全部読んだと言ってもいいほど読み、勉強は国語が得意でした。
通っていた小学校は国語教育の研究指定校で、教育関係者が視察に来る時には先生に、

『手を挙げて、発表してね』

と頼まれるほど、信頼されていたといいます。

中学校は伊吹町立伊吹山中学校(現・米原市立)を卒業。
中学時代は生徒会長を務め、スポーツは卓球をやっていました。

中学3年生の時に、先生勘違いから殴られ、怒った父親が教育長に電話し、翌日には職員室で謝罪されましたが、

『育長から電話が入ったら、すぐに謝るのか…』

と教員に対して不信感を覚えたそうです。

高校は滋賀県の私立高校に入学。
第一志望の高校の試験当日に急性中耳炎で高熱を出したため、私立高校に入学。
高校でも体罰教師がいて、運動ができない友人が蹴られたので抗議をすると、「授業に出るな」と言われ、以降はその教師の授業はボイコットしていたといいます。

高校1年生の終わりに父親が香川県高松市に転勤になったため、高松第一高校の編入試験を受け合格。
しかし、合格発表の当日に校長室に呼ばれ、

『君は1年生の単位を落としているから2年に編入できない』

と言われ驚いたそうです。

前の私立高校で体育の授業をボイコットしていたために単位が取れていなったことが理由でした。
そのため、1年生に編入し留年になっています。
高松第一高校は、香川県高松市桜町にある男女共学の高松市立高校。
設置学科は普通科と音楽科で、普通科の偏差値は69。香川県内ではトップクラスの進学校です。

高校時代はクラスメイトが1歳年下だったので子供に見えたとい、学校が終わると近所の県立図書館に行き、閉館まで読書をしていたといいます。

大学は早稲田大学・教育学部(偏差値65)に進学。
編集者や新聞記者になりたいと思い早稲田に入学しましたが、当時は大学闘争の最中で大学はロックアウトされ、多くがリポート試験だったといいます。

教員になったきっかけ

就職活動の時期に母親から教師になることを勧められ、尾木さんの教員嫌いを知っていた母親に理由を聞いてみると、

『直樹は教師のために苦労したから、そうした子供の気持ちが分かるいい先生になれる』

と言われ、やってみた教育実習はすごく楽しく、自習先の校長先生にも「教え方がうまい。君は教師に向いてるよ」と褒められたこともあり、教員の道に進むことを決意したといいます。

教員時代

公立高校は不採用でしたが、私立高校の適性検査を受けると、いくつかの私立高校から声がかかり大学卒業後は新宿区の私立海城高校に国語教師として勤務。

『海城高校(東京)を選んだのは、声をかけてくれた中で給料が一番高かったからなんです。いいかげんですね、今の学生に言えませんね。』

高校教師になっても体罰問題に巻き込まれ、体罰のひどい先生を批判すると、ラジオ番組に「体罰に反対する若い先生」として呼ばれたといいます。
有名になったことで、校内では体罰賛成派と反対派がいろいろな場面で対立するようになってしまい、4年間務めた後、妻の勧めもあり高校を辞めて、公立の中学校に職場を移りました。

中学校では男子校だった海城高校と違い、苦労したのは女子生徒の気持ちをつかむことでした。
そこで、「尾木ちゃんとの交換ノート」作って全員に配ったそうです。

『強制はしないよ。書きたくなった悩みや、連絡したいことがあったら書いてきて』

男子はあまり書いてはきませんでしたが、女子からは6割くらいが提出し、問題を抱える女子生徒が14パージも書いてきたこともあったといいます。
他にも学級通信も発行。1日2回発行することもあり、多い年には333号も出したそうです。
交換ノート、学級通信の生徒にに寄り添った教育実践が知られるように、著書や講演の依頼も増えていきました。

最後に勤務していた学校でも体罰が横行。

『外では「体罰は駄目だ」と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。』

次々と起こる教育現場で悩んでいることを研究したいとの気持ちもあり、1994年に教師を退職しました。

教育評論家として活動

退職した1994年に臨床教育研究所「虹」を設立。研究所が軌道に乗るまでの間は複数の大学の講師などをやっていけば収入は確保できると思っていましたがその読みは甘く、1年目の年収は86万円でした。

『妻が教員をしていたので生活は何とかやっていけましたが、子供が高校2年生と小学2年生、お金のかかる時期でした。妻が小遣いをくれるのですが、それが1回に2千円ずつ。いろいろな会合に出ても飲みに行けない。』

飲みの誘いは理由をつけて断っていましたが、そのうちに、お金がないことがバレてしまったそうです。

その後、現地調査など多くの教育問題を研究したり、アンケートを取ってさまざまなデータを発表したりして成果を上げ、教育の世界では知られるようになりました。

尾木ママとしてブレイクしたきっかけ

「尾木ママ」の名付け親は明石家さんまさんでした。
2009年の年末に放送された特番『さんま・福澤のホンマでっか!? ニュース』に教育を語る枠で出演。初めてのバラエティ番組でした。
すると尾木さんの話し方からさんまさんに

『あんた飲み屋のママに似てる』

と言われ、尾木さんは変な誤解をされていまうと思い、

『違うっ!違うわよぉ~』

と言いましたが、そのしゃべり口調から番組に出るたびに「尾木ママ」と呼ばれ定着しブレイクしたました。

口調は中学校での教員時代にしていた「交換ノート」で女子生徒の進路の悩みから恋の悩みまでアドバイスしていた時に染み付いたものだといいます。

結婚歴や妻、子供

尾木直樹さんが結婚したのは26歳の時いした。

妻は大学の同級生だった女性で、大学の講義で偶然に隣になった時に尾木さんが喫茶店に誘い交際に発展したそうです。
妻も教師をしていました。

子供は娘が2人で、1979年も長女、1985年に次女が誕生。
現在は孫も3人いるといいます。

2015年に『しくじり先生』に出演した際には、次女は破天荒で、中学時代には昼休みに教室から中庭に向けて花火を打ち上げたり、消火器を噴射していたりて、学校に呼び出されたと話しました。

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