映画『秋津温泉』などで知られる女優の岡田茉莉子さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
女優デビュしたきっかけは?
結婚した夫や子供は?
今回はの岡田茉莉子さんをリサーチしてみました。
岡田茉莉子の学歴・生い立ち・経歴
名前 岡田茉莉子
生年月日 1933年1月11日
出身 東京府東京市渋谷区
血液型 A型
小学校・品川区立旗台小学校
中学校・香蘭高等女学校
高校・・新潟市立高等女学校
大学・・進学していません
父親は無声映画のスターだった岡田時彦さん、母親は宝塚歌劇団で男役を務めた田鶴園子さん。
東京市渋谷区代々木で誕生しましたが、生まれて間もなく京都に転居。
翌年の1934年に父親が結核で他界し、父親の記憶はありません。
父親の死後は、東京市大森区北千束(現在の大田区)に住む、母親の妹で宝塚歌劇団のスターだった叔母の御幸市子さんと生活。
小学校は赤丸小学校に入学、小学生の頃は病弱で内向的な性格でした。
1938年に母親はダンスの資格を取得し、ダンスを教えるために上海に渡りましたが、岡田さんはその後も東京で生活。
1940年に叔母の御幸さんが東宝の映画プロデューサーの山本紫朗さんと結婚すると、今度は母親の実家の大阪市宗右衛門町の移りました。
1942年に祖父がなくなると、上海に渡り母親と暮らしましたが、岡田さんには上海での生活が合わず、単身で帰国し品川区に住んでいた叔母夫婦と暮らし、小学校は旗台小学校に入学。
1945年、6年生の時に戦況が厳しくなり、静岡県静岡市に集団疎開。
集団の生活で人見知りの性格は直ったといいます。
同年、香蘭高等女学校の受験の準備に東京に戻った3月10日夜に東京大空襲に遭い、叔母夫婦宅の防空壕で一晩怯えながら過ごしました。
香蘭高等女学校に入学しましたが、2週間しか通えず、叔母夫婦と新潟県新潟市に縁故疎開。
香蘭高等女学校は旧制高等女学校で、修学期間は5年。
現在は東京都品川区旗の台にある、香蘭女学校中等科・高等科です。
疎開先では新潟市立高等女学校に転校。
新潟県新潟市中央区沼垂東にある、現在の新潟市立万代高校です。
高校では演劇部に入り、部長も務めました。
転校してすぐに新潟市も空襲にさらされ、近くの赤塚村に疎開し、その2日後に終戦となり玉音放送を聞いたそうです。
高校時代に演劇部の友達と映画館で無声映画『瀧の白糸』を観て、帰宅後に母親のそれ話すと、その映画の主演を務めていたのが父親であると、初めて聞かされました。
翌日にはもう一度、父親を見るために映画館に足を運んだといいます。
高校卒業後は上京しました。
岡田茉莉子が女優デビューしたきっかけは?
岡田茉莉子さんが女優デビューしたききっかけは、東宝の映画プロデューサーだった叔父の勧めでした。
1951年に東宝ニューフェイスの第3期として、東宝演技研究所に入所。
叔父の後押しで無試験だったといいます。
映画『秋津温泉』が大ヒット
1951年に東宝に入って20日後に映画『舞姫』の準主役に抜擢されてスクリーンデビュー。
演技力と美貌から東宝のスターとなり、主演でも活躍。
1957年9月に松竹に移籍すると、有馬稲子さんと共に松竹の二枚看板として大活躍しました。
1962年の主演映画『秋津温泉』が大ヒットとなり、
第17回毎日映画コンクール・主演女優賞
を受賞。
1960年代にからはテレビドラマのにも出演し、1967年には大河ドラマ『三姉妹』では主演を務ました。
『三姉妹』は大河ドラマ初の女性主役作品でした。
2時間ドラマ『温泉若おかみの殺人推理』シリーズ(テレビ朝日)では1996年から2019年までの23年間に渡り、大女将役を演じました。
夫は映画監督の吉田喜重で子供は?
岡田茉莉子さんが結婚したのは1964年、31歳の時でした。
夫の吉田喜重さんも1933年2月16日生まれで同い年。
福井県福井市出身で、1955年に東京大学文学部仏文科卒業後、松竹大船撮影所に入社。
助監督を経て、1960年に『ろくでなし』で監督デビュー。
1962年には岡田茉莉子さん主演の大ヒット映画『秋津温泉』監督を務めました。
旧西ドイツのバイエルン州で挙式し、仲人役は映画監督の木下惠介さんと女優の田中絹代さんでした。
結婚後、1966年に夫婦で映画プロダクション『現代映画社』を創立。
女優としてだけでなく、1973年公開の映画『戒厳令』ではプロデューサーを担当しました。
吉田喜重さんは2022年12月に89歳で肺炎のため他界。
2人に子供はいませんでした。