人気ドラマ『おしん』で晩年の主人公を演じ、『おしん』ブームを巻き起こしたひとりとなった女優の乙羽信子さん。
生い立ち、経歴や学歴は?
結婚歴や夫は?
子供は息子?
晩年や死因は?
今回は女優の乙羽信子さんにつてリサーチしてみました。
乙羽信子の学歴・生い立ち・経歴
名前 乙羽信子
生年月日 1924年10月1日
没年月日 1994年12月22日(70歳没)
出身 鳥取県米子市
血液型 B型
小学校・・・神戸市立本庄小学校
各種学校・・宝塚音楽学校
鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身、本名は新藤 信子(しんどう のぶこ)(旧姓・加治)
父親は大阪市の魚屋の長男、母親は花柳界で芸者、私生児として生まれ、父親に引き取られて育った後、饅頭屋の養女になり兵庫県神戸に移りました。
小学校は神戸市立本庄小学校に入学。
小学生の時から花柳流の日本舞踊を習い始め、歌も上手で全日本小学校唱歌コンクールにも出場したこともありました。
1937年、小学校卒業後は、宝塚音楽学校へ予科生として入学。
同期には月丘夢路さん、越路吹雪さんがいました。
1939年、宝塚歌劇団に入団、宝塚入団時の成績は93人中49位。
月組へ編入され、『宝塚花物語』で初舞台を踏みました。
戦争の激化で劇団は活動休止、終戦後、再開された公演ではトップ娘役と務め、淡島千景と人気を二分し、戦後の宝塚歌劇団第一期黄金時代を支え、1950年に宝塚歌劇団を退団しました。
乙羽信子 おしんに出演
宝塚歌劇団を退団後は、映画会社の大映に入社。
デビュー映画は1950年公開の新藤兼人脚本、木村恵吾監督の『處女峰』。
翌年の1951年公開の『愛妻物語』で、夫を陰で支える妻を演じ、映画界でもスターの地位を確立。
1952年に新藤兼人監督の第1回自主制作映画『原爆の子』に出演。
同映画は内容の深刻さから大映が手を引いた映画で、乙羽信子さんは周囲の反対を押し切って出演、これを機にに大映を退社、新藤兼人さんが設立した『近代映画協会』の同人になりました。
1960年公開のセリフが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦だけという実験的な映画『裸の島』は、リアリティーあふれる画面は大好評となり、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界的に高い評価を受けました。
1960年頃からテレビドラマにも出演し、1971年『肝っ玉かあさん』第3シリーズ(TBS)に出演して以降は石井ふく子プロデュース作品の常連となりました。
1983年、驚異的な視聴率を記録したNHKの連続テレビ小説『おしん』に出演し、主人公・おしんの晩年期を演じ、国内外において新たなファンを獲得。
当時、59歳でした。
その後もドラマを中心に出演しました。
乙羽信子の結婚歴や夫
乙羽信子さんの結婚歴は1回。
1978年1月に映画監督の新藤兼人さんと結婚。
乙羽信子さん53歳、新藤兼人さん65歳の時で、2人が出会って27年目でした。
出会いは1951年の新藤兼人さんの春監督映画『愛妻物語』で、乙羽信子さんはこの映画で主演を務め大ヒットし、映画の世界で地位を築き、翌年1952年に新藤兼人さんの自主制作映画『原爆の子』に出演しました、
熱愛関係になったのはこの頃ですが、新藤兼人さんには妻子がいて、不倫関係でした。
新藤兼人さんには2度の結婚歴があり、最初の妻とは結核のため死別。
その後、再婚していました。
1972年に新藤兼人さんは離婚しますが、すぐには再婚しませんでした。
そのことについて、乙羽信子さんは、
『奥さんと別れたからと、すぐに私がその座につくのは精神的に耐えられなかった』
と述べています。
交際は続いていましたが結婚には至らず、すでに成人していた新藤兼人さんの子供が、父親が老後に1人になることを心配して、2人に結婚を勧めましたが、乙羽信子さんは前妻に遠慮して首を縦に振りませんでした。
その後、前妻が1977年8月に脳出血で亡くなった後、子供を交えて食事をし、その席で新藤兼人さんがプロポーズ。
そこでやっと乙羽信子さんは受け入れ結婚に至りました。
乙羽信子の子供は息子?
乙羽信子さんに実子はいません。
新藤兼人さんの連れ子は2人で、息子と娘がいます。
息子の新藤次郎さんは、父親の設立した近代映画協会の代表取締役社長を務めました。
乙羽信子の晩年と死因
1994年12月22日に肝臓癌による肝硬変で死去。
70歳没。
癌が発覚した時には末期で、余命宣告も受けていたといい、最後に挑んだ作品は新藤兼人監督映画『午後の遺言状』でした。
1995年6月公開され、この映画が遺作となりましたが、それより前に撮影した映画『三文役者』が2000年12月に公開されました。