さだまさしさんは長崎県出身の歌手。
生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?
歌手になったきっかけは?
結婚しているようですが妻は?
子供は何人?
今回は歌手のさだまさしさんをリサーチしてみました。
目次
さだまさしの学歴・生い立ち・経歴
名前 さだまさし
生年月日 1952年4月10日
出身 長崎県
身長 165cm
所属 さだ企画
小学校・長崎市立西北小学校
中学校・葛飾区立中川中学校
高校・国学院高校
大学・国学院大学
本名は佐田雅志(読みは同じ)
父親は材木商。
弟と妹がいる3人兄弟の長男。
小学校は長崎市立西北小学校を卒業。
幼少期に住んでいた実家は部屋が10以上もある豪邸でしが、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗。
豪邸を失い小さな長屋住まいとなりました。
3歳よりバイオリンを習い始め、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。
これがきっかけでバイオリン指導者として有名な鷲見三郎さんに認められ、小学校卒業後、中学1年生の時バイオリン修行のため単身上京。
葛飾区に下宿し、中学校は葛飾区立中川中学校を卒業。
中学では吹奏楽部に所属していました。
サイモン&ガーファンクルに影響され、中学の時にはギターを弾きながら曲を作るようになっていたといいます。
バイオリンの技術を磨く努力はしていましたが、道の厳しさや困難さに苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高校の受験に失敗。
高校は国学院高校に進学しました。
国学院高校は東京都渋谷区にある男女共学の私立高校。
現在の偏差値は63。
『高校3年生のとき、音楽大学を受験すべきかどうか悩みましたが、音楽大学をあきらめたときに、クラシックはやめたんです。』
引用 http://www.ezuko.com/
大学は国学院大学法学部に進学。
現在の法学部の偏差値は57。
大学時代はバイオリンを諦め、仕送りもなくペンキ屋などのアルバイトをしながら生活していましたが肝炎を患い、大学は2年で中退して長崎に帰郷しました。
さだまさしが歌手になったきっかけ
さだまさしさんが肝臓を痛め1972年10月に大学を中退し長崎に帰郷した後、高校の同級生で大学も一緒だった吉田正美さんに『東京で録音したデモ・テープを長崎に送ってほしい』と手紙を出したことで吉田正美さんが長崎のさだまさしさんのもとを訪ねてきました。
吉田正美さんは大学に入学後にすぐに中退し、セミ・プロのバンドで活動。
ちょうどバンド生活に嫌気がさしてため仕事を無断退職して、失踪状態で長崎にやって来たそうです。
2人は意気投合し1972年11月にフォークデュオを結成し音楽活動を開始。
2人ともボーカルを嫌がったためジャンケンで負けたさだまさしさんがボーカルを担当したことで歌手・さだまさしが誕生しました。
さだまさし グレープを結成し人気デュオに
フォークデュオを結成しましたが、『とりあえず』二人だけでやるという結成でした。
コンサート開催を興業団体に持ち掛けますが話はつかず。
最初のコンサートは自主開催することにし、グループ名が必要になったため、吉田正美さんが楽譜のトレードマークにしていた『Grape』でどうかと提案し、さだまさしさんは『ああ、そうしよう』と答え、1分でグループ名が決まったといいます。
最初のコンサートは定員304人のところ250人ほどしか集まりませんでした。
しかし、長崎放送ラジオのディレクターがコンサートに来ていたことからラジオ出演につながり、グレープはローカル番組『テレビ・ニュータウン』のレギュラーにも起用。
その後、音楽プロデューサーにスカウトされ、1973年10月に『雪の朝』リリースでデビュー。
デビュー曲の『雪の朝』は8000枚と売り上げが振るわず、1974年4月にリリースした2枚目のシングル『精霊流し』の売り上げも当初は芳しくないものでした。
しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサーの蟹江篤子さんがが担当の曜日で毎週のように流し続けたことで、放送エリアの名古屋地区だけでなく全国的なヒットとなり、オリコンチャート週間2位になり、同年の第16回日本レコード大賞作詩賞受賞。
続く、3枚目の『追伸』、4枚目の『ほおずき』、5枚目の『朝刊』も2人が考えていたほどのヒットにならず、グレープとしてラスト・シングルとなる6枚目の『無縁坂』が大ヒットとなりました。
最初のヒット曲『精霊流し』の影響でグレープ=暗いというイメージがつき、そのイメージを変えるべくリリースした『朝刊』が思うようにヒットせず、『精霊流し』と似たタイプの曲『無縁坂』がヒットしたことで、自分たちのやりたい音楽と受け手と齟齬(そご)を感じるようになったことから1976年春にグレープは解散。
さだまさしさんは当時24歳でした。
さだまさし ソロ活動
1976年にグレープ解散後、同年11月から『線香花火』でソロ活動を開始。
1977年3月にリリースした『雨やどり』が83万枚を売り上げる大ヒット。
山口百恵さんなどにも曲を提供し『秋桜』、『案山子』などヒット。
1979年7月にリリースした『関白宣言』が約160万枚の売り上げ大ヒットし、同年末の第30回NHK紅白歌合戦に初出場。
紅白歌合戦には2021年までに21回出場しています。
さだまさし 借金35億円を完済
さだまさしさんは1981年に、祖父、両親が青春時代を送った中国を訪ね、その歴史を追うドキュメンタリー映画『長江』を自費で製作。
監督・主演はさだまさしさんでした。
映画は配給収入5億円とドキュメント作としてはヒットしたものの、長江源流の立ち入りについて中国当局との交渉が難航するなど、撮影スケジュールも超過、撮影規模は企画段階よりも巨大化するなどし人件費をはじめとする制作費が大幅に増大。
当初資金面にほとんどタッチしていなかったさだまさしさんは作費の膨張に愕然。
結果、さだまさしさんが約28億円を融資を受け、返済総額は金利を含めると35億円にまで至ったといいます。
当時、さだまさしさんは29歳でした。
以降、さだまさしさんは借金返済のため年間100回以上ものコンサートを行なうようになり、2013年7月には日本武道館でソロ・コンサート通算4000回という記録を達成。
借金の返済には30年かかったといいます。
さだまさしが結婚した妻は?
さだまさしさんが結婚したのは1983年。
30歳の時でした。
妻は元キャビンアテンダントの女性。
結婚式はさだまさしさんの所有の長崎県の詩島で子行われました。
さだまさしの子供は何人?
さだまさしさんの子供は2人。
子供は息子を娘です。
長男の佐田大陸(たいりく)さんが1984年8月
長女の佐田詠夢(えむ)さんが1987年6月
に誕生しました。
2人とも音楽家で佐田大陸さんはバイオリニスト、佐田詠夢さんはピアにストをしています。
佐田大陸さんは桐朋学園大学、大学院卒業後、バイオリニストの道に進みました。
バイオリン2本とピアノののアコースティック・インストゥルメンタル・ユニット『TSUKEMEN』のメンバーとしても活動しています
佐田詠夢さんは洗足学園音楽大学を首席で卒業後、ピアニストとして活動。
2015年にゴスペラーズのメンバーの北山陽一さんと結婚しています。