元プロ野球選手で巨人のピッチャーだった定岡正二さん。
これまで結婚歴はなく独身ですが、熱愛の報道などはあったのでしょうか?
この記事では定岡正二さんの熱愛などについてリサーチしています。
定岡正二の熱愛遍歴は?
定岡正二さんは2024年現在、68歳ですが結婚歴はなく独身。
熱愛の噂はもあまり多くはありませんが、弟の定岡徹久さんは「何度も兄貴のデートにカモフラージュで同伴させられた」と話し、同じ巨人のピッチャーだった角盈男は「サダは見つからないようにデートするのが上手い」と話しているといいます。
熱愛が噂されたのは女優の浅野ゆう子さんと国生さゆりさん。
『20歳を少しすぎた頃、浅野は周囲が制止するのを振り切って、プレイボーイの定岡にのめり込んで行った』
引用 https://news.livedoor.com/
2人が交際していたのは定岡さんが24歳、浅野さんが20歳の頃です。
テレビ番組でみのもんたさんに過去に交際していたことを暴露されましたが、2人とも否定はしなかったといいます。
国生さゆりさんとの熱愛が噂されたのは1999年頃。
定岡さんが43歳、国生さんが33歳の頃で、2人とも鹿児島県出身で意気投合したといわれています。
定岡正二の経歴
父親は電電公社(現・NTT)の会社員。
3人兄弟の真ん中で、兄、弟も元プロ野球選手。
3歳年上の兄の定岡智秋さんは南海ホークス(現・ソフトバンクホークス)の内野手、4歳年下の弟の定岡徹久さんは広島、日本ハムで外野手として活躍。
野球は兄の影響で始め、鹿児島実高校時代は、2年、3年生の時に甲子園に出場。
2年生の時には代打で1打席だけの出場でしたが、3年生になるとエースとしてベスト4まで進出。
準々決勝では原辰徳さんがいた東海大相模高校との延長15回にわたる熱戦に勝利。
準決勝では3回に本塁に右手から滑り込んで、手首を負傷。
次の回はマウンドに上がりましたが、監督からストップがかかり交代を余儀なくされ、試合は交代した投手の牽制球の悪送球でのサヨナラ負けでした。
1974年のプロ野球ドラフト会議で巨人から1位指名を受け入団。
本人は後に「阪神に入団したかった」と述べています。
アイドル的人気選手
甲子園でベスト4に進出し、イケメンだったことからアイドル的に人気となり、高校時代からファンレターが毎日何キロも届き、自宅の電話は鳴りやまなかったといいます。
甲子園に向かう時の見送りは10人程度でしたが、帰って来た時には駅のホームから駅前広場まで1万人を超える出迎えの市民が集まりました。
巨人に入団してからもその人気は変わらず、宿舎には「定岡さんはいつ来る?」との問い合わせが殺到。
1軍の練習場の県営宮崎球場には、キャンプ始まって以来最高の15000人が来場しました。
『移動するたびに、ファンにもみくちゃにされる。身動きが取れなくなるから、バスの中で巨人の先輩を待たせることになってしまう。あれが嫌で嫌でしょうがなかった。高卒新人だし、オレだけ目立っちゃいけないと、そればかり考えていて部屋にこもった。』
大フィーバーとなりましたが、現在のような球団がフォローしてくるようなノウハウは持ってなく、フィーバーが収まるまでの約3年はつらく、人気を楽しむ余裕はなかったといいます。
トレードを拒否して引退
人気はありましたが2軍生活が続き、初勝利は入団4年目の1980年、スライダーを習得した同年には9勝をを挙げました
1981年には11勝、1982年には自己最多の15勝をマーク。
最高年俸は1983年の2520万円。
1983年は7勝、1984年は5勝、1985年はリリーフの回ったこともあり4勝。
1985年に近鉄(現・オリックス)へのトレードが通告されましたが、
『プロ野球に入ったときから巨人しかないという考えでした。頭ではトレードに従わねばならないとわかっていても、感情的に他球団のユニホームを着ることを納得できないんです』
と29歳の若さで任意引退は決意しました。
スポーツキャスター、タレントとして活動
引退の翌年の1986年2月には長嶋茂雄さんが連絡してくれた、当時、ロサンゼルス・ドジャースのオーナー補佐をしていたアイク生原さんの紹介で、ドジャースのスプリングトレーニング(春季キャンプ)に招待選手として参加。
ゲーム形式の打撃練習に登板しすると思った以上にスライダーが通用し6イニングを抑え、監督からは「マイナー契約で残れ」と言われましたが、一軒家をローンで購入していたため帰国。
1986年4月から『JNNスポーツチャンネル』(TBS)のスポーツキャスターに転身し、野球解説者として同局のプロ野球中継に出演。
バラエティ番組でタレントとしても活動し、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ)にゲスト出演した際に「おちゃのこさいさい」を「へなちょこさいさい」と言い間違えたことから、「へなちょこサダ」と呼ばれ準レギュラーとして出演。
人気を博しました。
2001年に『生ダラ』の終了や、所属していたイザワオフィスとのマネジメント契約満了が重なりバラエティ番組への出演は減少。
野球、スポーツ関連の仕事に軸を移し、野球中継の解説者などの仕事をしています。