佐久間良子さんは東京都出身の女優。
生い立ち経歴や高校などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴や夫は?
子供は双子で娘と息子?
今回は女優の佐久間良子さんをリサーチしてみました。
佐久間良子の学歴・生い立ち・経歴
名前 佐久間良子
生年月日 1939年2月24日
出身 東京都
身長 158cm
所属 ORPHe
小学校・開進第三小学校
中学校・川村中学校
高校・川村高校
大学・進学していません
東京府東京市板橋区(現在の東京都練馬区)出身。
父親は軍医で、地元でも有数の大地主の次男。
戦後は製薬会社に勤務し、後に役員になっています。
母親は人体模型を日本で初めて開発した製作所の娘。
3歳下の妹と6歳下の弟がいる3人兄弟の長女。
実家は敷地面積は500坪ほどの広い家でした。
小学校1年生の頃弟が生まれ、佐久間良子さんだけ群馬県の山寺に集団疎開。
1ヶ月後に父親が迎えに来た時には食料不足で栄養失調になり立ち上がれないほどだったといいます。
その後は家族で新たな疎開先の福島に移りました。
移った後は地元の小学校に通い、野山を遊び回ってたといいます。
終戦後、練馬の戻り、開進第三小学校に編入。
中学校は川村中学校、高校は川村高校を卒業。
学生時代には通学路に男子学生のファンが現れるほど評判の美人だったといいます。
高校卒業後は女優の道に進みました。
佐久間良子が女優になったきっかけ
佐久間良子さんが女優になったきっかけはスカウト。
高校3年生の時に高校の先輩で東映女優だった小宮光江さんに誘われて東映撮影所にいったことでスカウトされました。
自宅に東映に幹部が訪れて両親と話しましたが、親族を含め『絶対反対』。
反対する両親を見ていた佐久間良子さんは両親に対する反発心が生まれ、女優を目指すことを宣言。
反対を押し切って翌年の1957年に東映ニューフェイス第4期を受験。
水着審査を拒否しましたが『補欠合格』し東映に入社しました。
佐久間良子 実力派女優として
東映に入社後、俳優座養成所で半年間、研修を受け、1958年、映画『美しき姉妹の物語・悶える早春』の端役で映画デビューました。
早くから東京撮影所期待のホープ女優として売り出され、すぐに年10本以上の映画にヒロイン役で出演。
デビュー2年目にして雑誌『平凡』人気投票の女優10位にランクインしました。
当初は両親への反発心で入った世界だったこともあり馴染めず『いつか辞める』が口癖だったといいます。
清純派女優として着実に映画出演を重ねますが、清純派女優のイメージから抜けられぬことに悩んだこともあったそうです。
1963年3月公開の映画『人生劇場 飛車角』で初の情婦役を演じ、同年11月公開の主演映画『五番町夕霧楼』で初の濡れ場に挑み、高い評価を得て、
『清純派女優から演技派女優に脱皮した』
と批評家から言われるようになったといいます。
1960年代後半からは映画からテレビドラマと舞台に活躍の場を移し、1981年1月から放送された大河ドラマ『おんな太閤記』でNHK大河ドラマ史上、数少ない女性主役を務めました。
佐久間良子の結婚歴や夫は?
佐久間良子さんが結婚したのは1970年。
31歳の時でした。
夫は俳優の平幹二朗さん。
年齢は6歳年上で結婚時は36歳。
馴れ初めは1968年のドラマ『お吟さま』での共演。
共演は以前にもありましたが『お吟さま』がきっかけで交際がスタート。
結婚式は東京・赤坂の霊南坂教会で挙げました。
1984年に離婚。
結婚生活は14年でした。
離婚時、佐久間良子さんは45歳。
後に14年の結婚生活のうち、円満だったのは、最初の3分の1ほどで、1974年に平幹二朗さんが渋谷に買ったマンションを生活の場にするようになると、2人は事実上の別居生活になったことが明らかになったといいます。
離婚会見で平幹二朗さんは、
『原因は、彼女も仕事を大事にする人で生活のずれがあったことです。性格が合わなかったこともあって、それが14年間積み重なってしまった』
佐久間良子さんは、
『母と女優と妻の三役を全うできなかったのです。不器用な女なので、全力投球すると物理的に妻の役は無理でした』
とコメントしました。
佐久間良子さんの結婚歴はこの1度だけで、離婚後に再婚はしていません。
佐久間良子の子供は双子で息子と娘?
佐久間良子さんの子供は2人。
息子と娘の双子で1974年7月に誕生しました。
長男は岳大さん、長女は朋子さん。
長男に平岳大さんは俳優です。
俳優になることに父親の平幹二朗さんは『相談乗るよ』と賛成しましたが、佐久間良子さんは『絶対ダメ』と反対。
平岳大さんは2002年に舞台『鹿鳴館』デビューしこの舞台で平幹二朗さん、佐久間良子さんと共演しましたが、佐久間良子さんは共演が決まっても反対していたようで、本番中も佐久間良子さんは息子の平岳大さんと目を合わせなかったといいます。
その後、デビュー公演を無事やり遂げたのを見て『もう何も言うまい』と思ったと後に話しました。