小説家として活躍し、出家して天台宗の尼僧でもあった瀬戸内寂聴さん
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
出家した理由は?
結婚歴や夫。子供はいる?
今回は尼僧の瀬戸内寂聴さんをリサーチしてみました。
瀬戸内寂聴の学歴・生い立ち・経歴
名前 瀬戸内寂聴
生年月日 1922年5月15日
没年月日 2021年11月9日(99歳没)
出身 徳島県徳島市
血液型 A型
高校・・徳島県立高等女学校
大学・・東京女子大学
出生名は三谷晴美、高校在学中に父親が従祖母の養子となったため、瀬戸内姓になりました。
父親、母親、5歳年上の姉の4人家族。
徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)生まれで、実家は仏具店、母親は戦時中に空襲で他界。
子供の頃は体が弱く、本を読むのが好きで、食べ物の好き嫌いも多かったといいます。
新町尋常小学校から徳島県立徳島高等女学校に進学。
現在とは教育制度が違い、徳島高等女学校入学したのは13歳。
徳島高等女学校は現在の徳島県立城東高校で、偏差値は64。
18歳の時に、東京女子大学国語専攻部に進学。
現在の現代教養学部人文学科で偏差値は50。
小学3年生の時には小説家になると決めていましたが、東京女子大学に入学すると能力の高い人が多く、小説家は諦めて早く結婚し夫の才能を世に出す内助の妻になろうと思ったといいます。
瀬戸内寂聴の結婚歴や夫、子供は?
瀬戸内寂聴さんの結婚歴は1度。
結婚したのは大学在学中の20歳の時で、お見合い結婚でした。
夫は9歳年上で外務省留学生の中国音楽を研究していた男性で、1943年2月に結婚、同年10月には夫の赴任地の北京に渡りました。
1944年8月に娘を出産、終戦後1946年8月に家族3人で徳島県に引き揚げ、その後、上京。
1948年に4歳年下の夫の教え子と不倫、夫と3歳の娘を残して、家を出て京都で生活。
1950年に正式に離婚しました。
娘とは出家後に和解したそうです。
瀬戸内寂聴 小説家デビュー
1956年、処女作「痛い靴」を発表。
翌年の1957年に新潮同人雑誌賞を受賞しましたが、内容がポルノ小説であるとの批判され、「子宮」の表現を使ったことから「子宮作家」とレッテルが貼られました。
その批評に反論したことで、文芸雑誌からの執筆依頼はしばらくなくなったといいます。
1963年に三角関係の恋愛体験を描いた「夏の終り」で女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立。
1973年に出家後も作家活動は続け、人気作家として活躍しました。
瀬戸内寂聴が出家した理由は?
瀬戸内寂聴さんがが出家したのは1973年、51歳の時。
その理由は同じ作家で、4歳年下の井上光晴さんとの不倫関係を断ち切るためでした。
瀬戸内寂聴さんと井上光晴さんと不倫関係になったのは1966年、一緒に高松に講演旅行にいったことがきっかけで、その関係は7年続いていました。
不倫関係を終わらせために「生きながら死ぬ」という出家の道を選び、今春聴大僧正を師僧として天台宗で得度、法名は寂聴となりました。
作家としての活動も続け、作家としては俗名を名乗っていましたが、1987年に東北天台寺住職となった時点で戸籍名を寂聴に改め、寂聴名義での執筆活動を開始。
1988年には敦賀女子短期大学学長に就任しています。