元読売テレビアナウンサーで、シンクタンク経営者の辛坊治郎さんの学歴や経歴は?
アナウンサーになったきっかけは?
ヨットでの遭難の経緯は?
結婚歴や妻との馴れ初め、子供は?
今回は元読売テレビアナウンサーの辛坊治郎さんをリサーチしてみました。
辛坊治郎の学歴・経歴
名前 辛坊治郎
生年月日 1956年4月11日
出身 埼玉県入間市
身長 170cm
血液型 AB型
父親、母親、7歳年上の兄の4人家族。父親は航空自衛隊所属の自衛官でした。
兄は元住友ファイナンスエイシア代表取締役社長の辛坊正記さん。
鳥取県米子市生まれ。自衛官の父親は転勤が多く生まれて2ヶ月で宮城県東松島市部移り、その後、岐阜県各務原市に移り、小学校入直前に埼玉県入間市に落ち着き、高校卒業まで入間市で過ごしました。
入間市立高倉小学校、入間市立豊岡中学校を卒業。
小学生の時から勉強が出来、音楽以外は「5」だったそうです。
中学時代は体操部に所属しましたが、先輩の不祥事で廃部になってしまったといいます。
その後は体操やりませんでしたが、読売新聞社に入社した新人時代にはバク転が出来たそうです。
高校は川越高校に進学。
埼玉県川越市郭町二丁目にある男女共学の埼玉県立高校で、現在の偏差値は66。
高校時代は英語部と航空部に所属していました。
高校卒業後は早稲田大学法学部に入学。
法律家になろうと法学部に入学し、大学では司法試験受験サークル「螢法会」に入りましたが、司法試験の問題を見て諦め3日で辞めています。
その後は、ヨット同好会に入会しました。
『就職ということを考えると、堅いのは公務員試験を受けることなのです。』
地方公務員の大卒試験を受け、埼玉県の試験に合格。合格後は気分的に楽になり、大学3年生の時には世界中をリュックサック1つ背負い、バックパッカーとしてパリ、モロッコ、トルコなど約1ヶ月半かけて周り、4年生の時にはタイにも行きました。
当時は今ほど誰もが海外に行っている時代でなく、海外にいける仕事はないかと考え、商社の試験を受け合格。
受かったので、商社マンになろうと思い、アナウンサーになろうとは考えていませんでしたが、最終的には大阪の読売テレビにアナウンサーとして入社しました。
辛坊治郎がアナウンサーになったきっかけ
大学をあと3ヶ月で卒業となり、4年生の12月に大学の就職部の掲示板で、フジテレビが、
『リポーター司会者募集』
との募集を出していて、就職も決めて暇だったことと、当時のフジテレビは大学から徒歩で行ける範囲だったこともあり「リポーター司会者」の意味も分からないまま参加してみたそうです。
すると役員面接まで行き、最終の3人まで残ったものの最終的には不合格でしたが、その後、自宅に読売テレビから2募集で試験がしたいと電話がありました。
最初に試験で読売テレビでアナウンサーとして採用した人に断られ、翌年の入社のアナウンサーがいなくなってしまったための2次募集だったといいます。
『人事の担当者に「すみません、交通費は出ますか」と聞いたら「出します」、「飛行機で行ってもいいんですか」「けっこうです。飛行機代を請求してください」ということでしたので、「ありがとうございます」と言って、ただで大阪見物だからいいかと。』
辛坊さんのルーツは大阪だったこともあり、大阪見物を兼ねて試験を受けにいってみると試験の参加者は8人。
そのうち合格者は2人で、競争率4倍で合格しました。
『「これは朝のラッシュを外れているよな」ということで決めました。』
商社に入ろうと思っていた辛坊さんが、公務員も蹴って読売テレビに入ったのは、辛坊さんは「朝のラッシュ」が嫌でを避けたいと思っていて、埼玉県庁の始業は8時、商社は9時でしたが、読売テレビは10時が始業時間だったことから入社を決めたといいます。
辛坊治郎のアナウンサー時代
1980年4月に読売テレビにアナウンサーとして入社。
入社後はスポーツ実況を希望し、近鉄バファローズの記者を担当。その後は、『ズームイン!!朝!』の中継キャスターを8年間担当しました。
1990年4月、夕方のニュース番組『ニューススクランブル』のキャスターに抜擢されると、視聴率がトップだった裏番組の『MBSナウ』(毎日放送)を抜いて視聴率トップを獲得。
991年1月から1992年3月までは並行して『ウェークアップ!』の総合司会も担当していました。
1997年、編成局アナウンス部から報道局報道部に異動、2000年には報道局情報番組部長に昇進。
2001年10月からは、日本テレビの『ズームイン!!SUPER』の新聞・ニュース解説兼サブ司会に起用され、2005年4月まで東京で単身赴任生活を送っていました。
2009年10月、報道局解説委員長に就任し、2010年3月からは朝の情報番組『朝生ワイド す・またん!』のキャスターを担当。
同年9月に、読売テレビを退職。54歳の時でした。
引退後は自身が設立したしたシンクタンク「阪綜合研究所」に移籍し、フリーキャスターとして活動しました。
辛坊治郎のヨット遭難の経緯
辛坊さんは大学でヨット同好会に入って以降、読売テレビに入社後も社内で「ディンギークラブ」を作り、仲間とクルージングを楽しむことったといいます。
太平洋横断に憧れもありましたが、現実的には不可能と思っていました。
辛坊さんはヨット好きのアナウンサーと知られるようになり、ヨット、モーターボートの専門誌『月刊KAZI(カジ)』でコラムの連載を開始。
ヨットでの太平洋横断を目指していたアメリカ・サンディエゴ在住の全盲のセーラー、岩本光弘さんが「ひとりでは無理」と判断され
辛坊さんのコラムを音声で聞いていたことから、、支援者に、
『健常者と2人で挑戦するのはどうでしょう』
と提案し、辛坊さんにオファーしたことがきっかけで、2103年6月21日から、全盲のセーラー岩本さんと共に小型ヨットで太平洋横断に挑戦を開始しました。
福島県小名浜港を出発して5日目の朝7時8分に、宮城県沖を航行中にクジラと思われる生物に衝突、船体底に穴が開き浸水。
ヨットから脱出してから約10時間漂流した後、海上自衛隊に救助されました。
8年後の2021年6月にはリベンジし、70日かけて約9000キロの横断に成功。65歳の時でした。
辛坊治郎の結婚歴や妻との馴れ初め、子供
辛坊治郎さんの妻は、ラジオパーソナリティとして活動する西岡香さん。
香さんは読売テレビの10年後輩で、馴れ初めは同期の女性の紹介でした。
香さんはアナウンサーとして読売テレビを受けましたが不合格で、記者職に変えて入社したといい、アナウンサー志望だったことから、結婚退職後に、居住している枚方市の広報誌に掲載されていたエフエムひらかた開局前年である1996年に、パーソナリティの募集に応募し合格。
ラジオパーソナリティとしての活動を始め、2018年には担当した番組が第56回ギャラクシー賞奨励賞を受賞。
2022年2月末時点で2つの番組を担当していました。
子供は息子が2人と娘が1人の3人います。