東京都出身のダンサー、俳優・田中泯さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
ダンサーになったきっかけは?
俳優を始めたのいつ?
結婚歴や妻は?
子供はいる?
今回はダンサーの田中泯さんをリサーチしてみました。
田中泯の学歴・生い立ち・経歴
名前 田中泯(たなか みん)
生年月日 1945年3月10日
出身 東京都
身長 178cm
血液型 O型
高校・・武蔵高校
大学・・東京教育大学
1945年3月10日、東京大空襲の日に中野区で未熟児で誕生し、生後間もなく警察官だった父親の実家がある八王子の里山近くに疎開。
自然豊か場所で育ちました。
幼少期は病弱で身体が小さくいじめられっ子で、それを心配した母親の勧めで中学校ではバスケットボールを始めたといいます。
高校は武蔵高校に進学。
武蔵高校は、東京都武蔵野市境にある男女共学の都立高校で、現在の偏差値は67。
高校時代のバスケットボール一色で、高校3年生の時にはクラスで一番背が高くなっていたといいます。
高校卒業後は、バスケットボールの強豪校だった東京教育大学に進学。
東京教育大学は、東京都文京区に本部があった国立大学で1978年に閉校し、現在の筑波大学の母体となりました。
大学でもバスケットボールをやっていましたが、大学に入って上には上がいるとづき、バスケットボールは辞めてしまい、大学も中退しました。
田中泯がダンサーになったきっかけは?
『幼少期に盆踊りに出会って以来、大好きだった踊りを正式に習うにはどうしたらいいかと考えたからなんです。』
引用 https://www.cpra.jp/
大学でバスケットボールを辞めた後、子供の頃から興味があった踊りをやってみたいという気持ちが芽生えて、バレエスタジオを見学。
当時は、男がやるものではない時代でしたが西洋から来た最新芸術で、ライバルが少ないことも背中を押したといいます。
母親は日本画家を志しながら、親に連れ戻された経験があり、
『自分で決めなさい。自分の将来は人に相談するものではない』
と心強い言葉をもらったそうです。
田中泯 デビュー後
大学の舞踏研究室に籍を置き、バレエ団で10年技術を学び、モダンダンスも習い、バレエ公演にも出演しましたが、何か違うと思っていたといいます。
1968年に暗黒舞踏の創始者・土方巽さんの『肉体の叛乱』を観て、それまでの常識では測ることのできない踊りに衝撃を受け、生まれたのは『裸の踊り』でした。
1974年に、髪や眉毛を剃り落とし、身体を土色に塗り、裸体というスタイルで踊り始めましたが、当時の日本では受け入れられことはなく、裸で踊っているとすぐに警察を呼ばれ、現在でいうワイドショーのような番組でネタにされたこともあったといいます。
その後、1978年にフランス・パリに招待されて踊ると、フランス人には絶賛されて非常に高い評価を得て一夜にして有名になり、日本に帰国jすると、手のひらを返したように日本でも受け入れられるようになりました。
以降、1979年にはアムステルダム市立美術館、1980年にはアヴィニョン演劇祭、ローマ・カラカラ浴場などで次々と独舞講演を行っています。
1982年に身体気象研究所を設立し、ダンサーだけでなく、美術家、映像作家、詩人、哲学者、などあらゆる表現者たちが集う集団を作りました。
田中泯が俳優を始めたのいつ?
田中泯さんは1977年の映画『犬神の悪霊(たたり)』、1998年『嵐が丘』、1990年『あげまん』や、1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』などで、シーンの振付家として参加していましたが俳優として出演したことはなく、初めて俳優として出演したのは、2002年の映画『『たそがれ清兵衛』』の余吾善右衛門 役で、その演技で、
第26回日本アカデミー賞・新人俳優賞、最優秀助演男優賞
を受賞。
当時、57歳でした。
2007年のHNKドラマ『ハゲタカ』でドラマデビューし、以降はドラマでも活躍。
2021年公開の映画『HOKUSAI』で葛飾北斎(老年期) 役を演じ、柳楽優弥さんとのW主演を務めました。
田中泯の結婚歴や妻は?
田中泯さんは自身の著書で結婚していることを明かしています。
その著書で1974年に裸で踊り始め時には、すでに妻と子供がいたと書いています。
1974年は29歳の頃でした。
田中泯に子供はいる?
田中泯さんには娘が1人いるようです。
『その始まりの風景を写した1枚の写真が残る。同じく裸になった妻と生まれたばかりの娘の前で、膝を抱え跳び上がる姿。』
1974年に裸の踊りを始めた頃には、生まれたばかりだったそうです。
その後に子供が生まれたかは不明でした。