伊丹十三監督作品の常連としても活躍した名優・津川雅彦さんの経歴や学歴は?
俳優になったきっかけは?
妻の朝丘雪路さんの馴れ初めや子供は?
死因や晩年は?
今回は俳優の津川雅彦さんをリサーチしてみました。
津川雅彦の学歴・生い立ち・経歴
名前 津川雅彦
生年月日 1940年1月2日
没年月日 2018年8月4日(78歳没)
出身 京都府京都市
身長 171cm
血液型 O型
所属 グランパパプロダクション
父親、母親、6歳年上の兄の4人家族。本名は加藤雅彦(かとう まさひこ)。
父親は歌舞伎役者から映画俳優に転身した戦前の大人気俳優・澤村国太郎さん、母親は女優のマキノ智子さん、6歳年上の兄は俳優の長門裕之さん。
母方の祖父は日本初の商業映画を撮影し、『日本映画の父』と言われる映画監督の牧野省三さん、叔父のマキノ雅弘さんも映画監督です。
物心つく前から父親の主催していた劇団『新演技座』で子役で出演していました。
小学校は京都市立御室小学校、中学校は洛星中学校を卒業。
洛星中学校は、京都府京都市北区小松原南町にあるカトリック系の男子校。
中学時代に映画『山椒大夫』に出演すると撮影が長引いて、中学校を留年しました。
高校は同志社高校に進学。
京都府京都市左京区岩倉大鷺町にある男女共学の私立高校で偏差値は72。
高校時代は新聞記者に憧れ、父親の、
『新聞記者なら早稲田に行け』
との助言から、早稲田大学附属高等学院に編入。
東京都練馬区上石神井にある私立の男子校で、偏差値は75。
在学中に、映画『狂った果実』に出演しすると映画は大ヒット。
高校は明治大学付属中野高校・定時制に編入して高校を卒業しました。
高校卒業後は、文化学院短期大学に入学。
東京都墨田区両国にある、現在は専修学校の文化学院です。
1921年に設立され、1925年に旧制専門学校に相当する大学部が設置、1972年に認可され専修学校になりました。
卒業後は俳優に専念しています。
津川雅彦が俳優になったきっかけは?
津川雅彦さんは幼少期から子役として活動し、阪東妻三郎さんや市川右太衛門さんなどの時代劇スターと共演していましたが、化粧するのが嫌いで、時代劇のカツラが重くて、役者は好きではなかったといいます。
新聞記者を目指して早稲田大学附属高等学院に編入した後、ある結婚式で津川さんを見かけた石原慎太郎さんの強い指名で映画『狂った果実』に出演オファーがあり、夏休みだったこともあり『一本くらいなら出演してもいいか』と出演したところ映画は大ヒット。
津川さんも一気にスターになり、チヤホヤされて気分が良くなったといい、1956年に、16歳の時に日活と契約し俳優の道に進みました。
津川雅彦 大河ドラマで主演
人気絶頂の1958年に日活から松竹へ移籍。
しかし、松竹での出演映画は1本もヒットせず、以降は低迷が続きました。
フリーに転身してテレビなどに活動の場を広げたましたが、30歳の時にデヴィ・スカルノさんとの不倫疑惑が報道され、さらに仕事は激減したといいます。
転機になったのは、1972年からテレビ朝日系で放送が開始された『必殺シリーズ』で、悪役で出演したことで、再び人気を獲得。
二枚目俳優でしたが、テレビの演出家に、
『お前は今、世間から女たらしと嫌われているから、悪役をやれば喜ばれるぞ』
と言われ、二枚目のプライドを捨てて出演したことで、再ブレイクしました。
1981年公開の映画『マノン』で
第24回ブルーリボン賞助演男優賞
1987年には映画『マルサの女』『夜汽車』で、
第11回日本アカデミー賞・最優秀助演男優賞
『別れぬ理由』で
優秀主演男優賞
を受賞。
2000年の大河ドラマ『葵 徳川三代』では主演の徳川家康を演じました。
津川雅彦と妻の朝丘雪路の馴れ初めや子供は?
津川雅彦さんと朝丘雪路さんが結婚したのは1973年5月。
津川さんは33歳、5歳年上の朝丘雪路さんは37歳でした。
津川さんは初婚でしたが、朝丘さんは再婚。
朝丘さんは1967年に青森県八戸市の内科医師と結婚し、息子を出産しましたが1972年に離婚、子供は夫側が引き取りました。
『不倫ですからね。どんなっていうか、熱があったということです』
馴れ初めは不明ですが、不倫から関係が始り結婚に至りました。
子供は1974年3月18日に娘の真由子さんが誕生。
真由子さんは生後5ヶ月の時に自宅2階で寝ていたところを身代金目的の23歳の男に誘拐されましたが、41時間後に犯人宅で保護されました。
2000年からは女優として活動し、グランパパプロダクションに所属しています。
津川雅彦の死因や晩年
2017年11月に肺炎のために緊急入院し、翌年の2018年4月27日には認知症だった朝丘雪路さんが他界。
津川さんは肺炎の影響で酸素吸入器のチューブを鼻につけた状態で会見を行い、これが公の場に姿を現した最後でした。
朝丘さんが亡くなった3ヵ月後の2018年8月4日に、後を追うように心不全で亡くなりました。
78歳でした。