役所広司さんは長崎県出身の俳優。
生い立ち、経歴や高校などの学歴は?
俳優になったきっかけは?
結婚しているようですが妻は?
子供は息子と娘で俳優?
今回は俳優の役所広司さんをリサーチしてみました。
役所広司の学歴・生い立ち・経歴
名前 役所広司
生年月日 1956年1月1日
出身 長崎県
身長 179cm
所属 ワイ・ケイ事務所
中学校・諫早市立諫早中学校
高校・大村工業高校
大学・進学していません
長崎県諫早市出身。
本名は橋本広司(はしもと こうじ)
男ばかり5人兄弟の末っ子。
実家は家族経営のジュース工場で、映画館などでも販売していたそうでが、裕福ではなかったそうです。
中学校は諫早市立諫早中学校を卒業。
中学時代はバスケットボール部に在籍。
高校は大村工業高校を卒業。
大村工業高校は長崎県大村市森園町にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は49。
バレーボールの強い学校で多くのバレーボール選手を輩出してます。
高校卒業後は映画で見た東京に憧れて上京し、千代田区役所土木工事課に勤務し公務員として働いていました。
役所広司が俳優になったきっかけは?
役所広司さんが高校卒業後に上京しましたが、俳優になるつもりはありませんでした。
『都合が悪くなった知人の代わりに、仲代達矢が出演した俳優座の舞台「どん底」を見に行き、心を動かされた。』
引用 https://www.yomiuri.co.jp/
千代田区役所に勤めていた時に仲代達矢さんの舞台『どん底』観て感銘を受け、1978年に仲代達矢さん主宰の俳優養成所『無名塾』が塾生を募集していることを知り、演技経験はありませんでしたが応募し合格。
『役者をやらずに(東京での生活が)終わるのは後悔するだろうなと思い、やってみようと。ダメなら田舎に帰ろうという気持ちだった』
引用 http://www.teinenjidai.com/
4年間務めた千代田区役所を退職し俳優を目指しました。
役所広司のブレイクはいつ?
役所広司さんは200倍の倍率の『無名塾』に合格し、舞台デビュー。
1979年11月公開の映画『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』の倉島帝大剣道部主将役で映画デビュー。
1980年1月から放送されたNHKの朝ドラ『なっちゃんの写真館』の香山少尉役でドラマデビューしました。
当時24歳でした。
1983年の大河ドラマ『徳川家康』の織田信長役で注目され、1984年のNHK新大型時代劇『宮本武蔵』の主人公・武蔵役で初めて主演を務めました。
1987年10月から放送されたテレビ朝日系時代劇『三匹が斬る!』に浪人・久慈慎之介、通称『千石』を演じ、同ドラマは人気となりシリーズ化され1995年までに7シリーズが放送されています。
1988年9月公開の日本・スイス合作映画『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』で関谷海軍中佐役を演じ映画初主演。
当時32歳でした。
1990年8月公開の主演映画『オーロラの下で』で
第14回日本アカデミー賞・優秀主演男優賞
を受賞。
1996年1月公開の映画『Shall we ダンス?』が配給収入16億円の大ヒットし、
第20回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞
翌年の1997年5月公開の主演映画『失楽園』も23億円の大ヒット。
同月に公開された主演映画『うなぎ』が
第50回カンヌ国際映画祭・パルム・ドール
を受賞。
第21回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞
も受賞し、2年連続最優秀主演男優賞を受賞。
役所広司さんはこの2年で20以上の映画賞を獲得し大ブレイク。
1996年から7年連続で日本アカデミー賞の優秀主演男優賞も受賞しています、
役所広司の結婚や妻は?
役所広司さんが結婚したのは1982年。
26歳の時でした。
妻は女優の河津左衛子さん。
本名はさえ子さんというようです。
年齢は4歳年上。
河津左衛子さんは当時、俳優座の中堅女優として活躍し、『無名塾』でも稽古していたといい役所広司さんの先輩でした。
結婚後は八畳一間家賃3万円のアパートから生活をスタート。
結婚の1週間後にNHK大河ドラマ『徳川家康』の織田信長役に抜擢。
『1日のスケジュール管理から、どんな仕事を受けるかの最終判断まで、さえ子さんが行っているのです。』
引用 https://jisin.jp/
1984年に夫婦で事務所を設立し、妻のさえ子さんは社長を務めています。
妻のさえ子さんは1988年頃までは女優もしていたようです。
3万円にアパートからスタートしましたが、げ現在では都内の高級住宅地にある3階建ての自宅と渋谷区にある4階建てビルを所有し、資産価値は不動産だけで約16億円だといいます。
役所広司の子供は息子と娘で俳優?
役所広司さんの子供は息子が1人のようです。
1985年10月17日に誕生しました。
名前は橋本一郎さん。
元々は父親とは違う道に進もうと考えていましたが、成城大学法学部に入学し大学で映画研究部に在籍したことで演技の魅力に気付き俳優を目指すようになったそうです。
2007年5月公開の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』で俳優デビュー。
2009年6月公開の映画『劒岳 点の記』で役所広司さんと共演していますが、偶然で監督は橋本一郎さんが役所広司の息子だとは知らなかったといいます。
橋本一郎さんはオーディションで合格しましたが、監督には、
『お前のオヤジ(役所広司)のことを知ったのは後だからな』
としつこく言われたといます。
同映画では山岳会のメンバーの吉田清三郎役でしたが、撮影中に膝を痛めてしまい、検査の結果、手術が必要だと分かり、映画では吉田清三郎が古傷が痛んで途中で下山する設定になったそうです。