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吉幾三の結婚歴や妻は?子供はいる?高校、大学などの学歴や経歴・生い立ち

青森県出身の演歌歌手・吉幾三さん。

生い立ち、経歴や高校・大学などの学歴は?

歌手になったきっかけは?

アイドル歌手でデビュー?

結婚歴や妻は?

子供はいる?

今回は演歌歌手の吉幾三さんをリサーチしてみました。

吉幾三の学歴・生い立ち・経歴

名前   吉幾三
生年月日 1952年11月11日
出身   青森県
身長   178cm
血液型  B型
所属   吉プロモーション

 

吉幾三の学歴

小学校・嘉瀬小学校

中学校・金木中学校

高校・・高校には進学していません

青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身。

本名は鎌田 善人(かまた よしひと)。

父親は民謡歌手の鎌田稲一さん。

9人兄弟の末っ子。

小学校は嘉瀬小学校を卒業。

父親は農業をしながら、民謡歌手をしていましたが生活は貧しかったといいます。

中学校は金木中学校を卒業。

親の勧めで高校は受験しましたが、落ちたそうです。

中学卒業後は歌手を目指して上京しました。

吉幾三が歌手になったきっかけは?

『12~13歳、中学生のころだったですかね。やっぱり、村一番の貧乏だったですから、「歌手になれば…」って思うじゃないですか。』

引用 https://www.uta-net.com/

父親が民謡歌手で母親は踊りを踊っていて、吉幾三さんも小学5年生くらいから一緒にまわって歌っていて、民謡は好きではなかったそうですが、子供の吉幾三さんが歌うとおひねりのようなもが出たそうです。

母親は『貯金しておくからね』と言っていましたが、それが生活費になっていることも知っていたため、両親を楽にしてあげたいという気持ちがあったといいます。

中学を卒業して『東京に行って歌手になる』というと父親は大反対したといいます。

中学卒業して間もなく、母親が3000円で買ってくれたガットギターを持って上京したそうです。

吉幾三はアイドル歌手でデビュー?

上京後は上野の料理屋で働いていた姉のところに住み、作曲家・作詞家の米山正夫さんに師事しました。

吉幾三さんは演歌を歌いたかったそうですが、米山正夫さんが小林旭『赤いトラクター』、同じくヤンマーの『ヤン坊マー坊天気予報』のテーマ曲で成功していたため、ヤンマーのコマーシャルソングでデビューさせると言われたそうです。

1973年3月に山岡英二という芸名で『恋人は君ひとり』をリリースし歌手デビュー。

『ヘンな宇宙服みたいなの着せられて、振付につれて行かれて、「オレは何をやらされるんだろう?」って思いましたよ。正直言って、絶対売れないって思ってましたね(笑)。』

引用 https://www.uta-net.com/

アイドル歌手としてのデビューで、キャッチフレーズは『男なら決めよう』。

20歳の時でした。

同年10月には『君は無敵の三冠王』をリリースしましたが、アイドルとしては成功せず、以降はしばらく飲み屋を流しとして歌うなどして何とか生活していました。

吉幾三 俺ら東京さ行ぐだは日本語ラップの元祖

1977年11月に吉幾三に改名し、フォークソング路線に変更し、自身で作詞、作曲した再デビュー『俺はぜったい!プレスリー』がヒット。

吉幾三さんはエルヴィス・プレスリーの楽曲は全く知らなかったそうで、同年8月にエルヴィス・プレスリーが亡くなったニュースを聞き、彼の名前を冠した歌を作ったといます。

ヒットしたことで同曲をベースにした映画『俺は田舎のプレスリー』『俺は上野のプレスリー』の2本が松竹から公開されました。

1984年3月には千昌夫さんへの提供曲『津軽平野』がヒット。

作曲家としても注目されました。

同年11月に自身で作詞、作曲した『俺ら東京さ行ぐだ』大ヒット。

週間オリコンチャート4位にランクインし、1985年の年間チャートでは年間21位を記録。

演歌チャートではなく『フォーク、ニューミュージック』チャートでランクインでした。

公称売上は70万枚。

『俺ら東京さ行ぐだ』はアメリカへ移住した知人から贈られたLPレコードでラップ音楽を聴き、そこから想を得て作ったといいます。

本楽曲を各レコード会社に売り込むも、全て断られてしまい、最終的にはに千昌夫さんが数百万円で吉幾三さんから原版権を買い取る形で、支援され発売に至ったそうです。

リリース後、

『テレビもラジオも電話もガスも電気も無い』

など自虐的な部分が、発売当初は出身地である青森県北津軽郡金木町(現:五所川原市)から

『うちはそんなに田舎じゃない』

と猛抗議を受けたといいます。

吉幾三 雪国で紅白歌合戦出場

吉幾三さんがは『俺はぜったい!プレスリー』『俺ら東京さ行ぐだ』などのコミックソング路線だったことから、千昌夫さんに、

『今さら正統派の演歌なんか売れるわけない』

と大反対をが押し切って 1986年2月に自身で作詞、作曲しリリースした正統派演歌『雪國』がオリコンチャート1位にランクイン。

1987年度年間チャートも3位にランクインしました。

発売年の1986年に、第37回NHK紅白歌合戦に初出場。

紅白歌合戦には2001年までに16回出場しています。

吉幾三の結婚歴や妻は?

吉幾三さんが結婚したのは1975年。

23歳の頃でした。

妻の名前は寿佐子(ひさこ)さん。

2人の出会いは1973年の小笠原ツアーの船上。

台風に襲われて船酔いした吉幾三さんがデッキでギターを弾きながら即興の歌を歌っていたのを、やはり船酔いでデッキに出ていた寿佐子さんが聴いたのが馴れ初めでした。

結婚した1975年は、まだ吉幾三さんが売れる前で喫茶店でアルバイトをしながら、水前寺清子さんや北島三郎さんの前座で地方を回っていたそうです。

結婚の2年後の1977年に『俺はぜったい!プレスリー』がヒットしました。

吉幾三の子供は何人?

吉幾三さんの子供は3人。

子供は娘が2人と息子が1人です。

長女はKU(くー)の芸名で歌手、次女は寿三美(ことぶき みみ)の芸名で舞台を中心に女優をしています。

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