タケモトピアノのCMで知られる俳優、元吉本新喜劇座長だったでコメディアンの財津一朗さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
結婚歴や妻、子供は?
今回は俳優の財津一郎さんをリサーチしてみました。
財津一郎の学歴・生い立ち・経歴
名前 財津一郎
生年月日 1934年2月22日
没年月日 2023年10月14日(89歳没)
出身 熊本県熊本市
身長 176cm
血液型 O型
所属 志母澤事務所
中学校・済々黌中学校
高校・・済々黌高校
大学・・進学していません
父親は農林省(現t・農林水産省)の役人、3人兄弟にの末っ子。
本名は財津 永栄(ざいつ ながひで)。
東京に住んでいましたが、父親が出征したため、1944年に一家で故郷の熊本県熊本市に疎開。
中学校は熊本県熊本市中央区黒髪に公立中学校の済々黌中学校に入学。
1947年に財津家の土地を守るために阿蘇郡黒川村(現・阿蘇市)に移り、旧制阿蘇農業高校に転校。
1949年に熊本市に戻り、済々黌高校に入学。
現在の偏差値は73。
高校時代には水泳部でに在籍。
大学受験では、早稲田大学文学部演劇学科を受験しましたが失敗。
高校卒業は、榎本健一映画演劇研究所に入り演技の勉強をしました。
財津一郎 吉本新喜劇の座長
榎本健一映画演劇研究所で演技を学びながら、帝劇ミュージカルの研究生にもなり、榎本健一映画演劇研究所は、劇団『石井均一座』にに入団。
舞台で活動した後、1962年に吉本興業に入り、1964年に吉本新喜劇に参加。
この時に芸名を財津一郎としました。
サラリーマン役などを多く演じ、1965年に吉本新喜劇座長に就任。
1962年5月から朝日放送で放送が開始されたこめ、コメディ番組『てなもんや三度笠』に、1965年頃から、浪人役で出演し、「非ッ常にキビシ~ッ!!」、「許して…チョーダイ!!」などの流行語を生み出し、一世を風靡しました。
1969年に吉本興業を退社、その後は活動拠点を東京に移しました。
喜劇作品に多く出演し、やがてテレビドラマは映の話題作に出演するようになり、1984年の伊丹十三監督映画『お葬式』では、
第8回日本アカデミー賞・優秀助演男優賞
を受賞しました。
2001年8月からタケモトピアノのCMに出演し、2023年8月まで23年間放送されました。
財津一郎の晩年
1995年、61歳の時に脳内出血を発症、手術後は左半身に軽い麻痺が残りましたが、3ヶ月のリハビリでテレビドラマに復帰。
しかし、70歳の時に肺の前がん病変と診断され、左肺の半分を切除しました。
映画は2010年11月公開の主演映画『ふたたび swing me again』、ドラマは2011年3月の『3年B組金八先生ファイナル』の出演を最後に活動を休止していました。
2023年のインタビューでは、運転免許そ返納したことや、体操やヨガを日課とし、月1回はゴルフを楽しみにしていると話しました。
2023年10月14日、慢性心不全のため死去。
89歳没。
財津一郎の結婚歴や妻
財津一郎さんは1960年、25歳の時に結婚しました。
妻は4歳年上のミドリさんで、結婚時は29歳。
ミドリさんは財津一郎さんも駆け出しの頃に所属していた、劇団『石井均一座』の舞台女優でした。
財津一郎さの一目惚れで交際、結婚に至ったそうです。
財津一郎も病気をしましたが、妻のミドリさんも衰え、自宅で転んで骨折するなどもあって介護が必要な状況になり、晩年は財津一郎さんが介護をしていました。
2020年2月にミドリさんは他界しています。
財津一郎の子供は何人?
財津一郎さんの子供は息子が1人。
1961年8月に功さんが誕生しました。
功さんは日本テレビに就職し、プロデューサーを務めました。
1999年7月に生まれた、孫の財津優太郎さんは俳優で、2022年にはドラマ『正直不動産』。2023年には『下剋上球児』などに出演しています。