お母さん役、おばあちゃん役で親しまれ、『お母さん女優』の代名詞とも言われた池内淳子さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴や夫は?
子供は息子がいる?
今回は女優の池内淳子さんをリサーチしてみました。
池内淳子の学歴・生い立ち・経歴
名前 池内淳子
生年月日 1933年11月4日
没年月日 2010年9月26日(76歳没)
出身 東京都墨田区
血液型 O型
中学校・十文字中学校
高校・・十文字高校
大学・・進学していません。
東京市本所区東両国(現・東京都墨田区両国)出身、実家は代々続く塩物問屋で、4人姉妹の長女。
妹たちからは「大きいちゃん」と呼ばれていました。
中学校は十文字中学校、高校は十文字高校を卒業。
十文字中学校・高校は東京都豊島区北大塚にある私立の女子校。
十文字中学校の偏差値は50、高校の偏差値は60~67。
卒業生には女優の坂井真紀さん、タレントのYOUさんがいます。
高校卒業後は、日本橋三越に入社し」呉服売り場に配属。
配属先には後の女優・前田通子さんもいて、その2人の美貌は評判になったといいます。
約1年勤務した後、花嫁修業のため日本女子割烹専修学校(現・池袋調理師専門学校)に通い、料理と洋裁を習いました。
巨人ファンで知られ、東京ドームの年間ボックスシートを購入していたほどのファンでした。
池内淳子が女優になったきっかけは?
1954年に週刊誌『サンケイグラフ』のカバーガールに応募。
新東宝本社で開かれた選考委員会で1位に輝き、スカウトされ新東宝に入社し芸能界入り。
新東宝では別で同じくスカウトされていた、日本橋三越の同期、前田通子さんと偶然再会しました。
池内淳子 テレビドラマの女王
1955年、21歳の時に映画『皇太子の花嫁』で女優デビュー。
翌年の1956年映画『新妻鏡』で初主演し、久保菜穂子さん、三ツ矢歌子さんと共に『新東宝現代劇の女優三羽烏』として注目を浴びました。
1957年に結婚し、一時引退しましたが1960年に女優復帰。
テレビドラマにも活動の場を広げ、1960年7月から放送された『日日の背信』(フジテレビ)で主演の不倫に揺れる屋代幾子 役を演じ、昼の放送ながら30%近い視聴率を記録、主婦層から支持を得て、不倫などのテーマの『よろめきドラマ』には欠かせない女優として『よろめき女優』と呼ばれました。
1965年6月から放送された『女と味噌汁』(TBS)では割烹着の似合い小料理屋を持つことを夢に持つ、芸者のてまり 役を演じ、安定した視聴率を稼ぎ『20%女優』の異名も付けられ、テレビ女優ナンバー1の地位を確立。
1973年からは味の素『ほんだし』のCMに出演し、ほんだしの初代イメージキャラクターを務め、以降は『渡る世間は鬼ばかり』(TBS)などのホームドラマでお母さん役、おばあさん役で活躍しました。
2007年4月に肺線がんと診断されましたが、抗がん剤治療で腫瘍はほぼ消失、しかし、2010年に再発、同年5月までは舞台に出演していましたが、その後入院し、同年9月26日に肺線がんのため、76歳で死去。
遺作は同年1月11日に放送された『Wの悲劇』(TBS)でした。
池内淳子の結婚歴や夫は?
池内淳子さんが結婚したのは1957年、23歳の時でした。
夫は俳優で歌手の柳澤愼一さん。
1932年12月19日生まれで年齢は1歳年上。
1952年にジャズ歌手としてデビューし、1956年からは俳優としても活躍し多くの映画で主演を務めました。
品川プリンスで盛大な挙式を行いましたが、3ヶ月後に池内淳子さんが実家に帰り離婚。
原因は姑問題や性的不一致が理由と噂されましたが、本人たちからはなにも語られず、離婚理由は不明でした。
戦後芸能界スピード離婚第1号だといいます。
離婚後は生涯再婚はしませんでした。
池内淳子の子供は息子?
池内淳子さんは『息子』で検索されていますが、子供はいません。
『息子 俳優』でも検索されていますが、理由は不明でした。
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