ジャーナリストの田原総一朗さん。
経歴や学歴は?
結婚はしているようですが、妻はどんな方なんでしょうか?
子供は娘?
若い頃の画像は?
今回はジャーナリストの田原総一朗さんについてリサーチしてみました。
田原総一朗の学歴・経歴
名前 田原総一朗
生年月日 1934年4月15日
出身 滋賀県彦根市
身長 166cm
所属 ブルーミングエージェンシー
小学校・彦根市立城東国民学校、彦根市立佐和山国民学校
中学校・彦根市立東中学校
高校・彦根東高校
大学・早稲田大学
父親は絹糸問屋から、紐の工場を経営していました。
実家は子供の頃は裕福でしたが、父親が商売が下手で、どんどん生活は貧しくなっていったそうです。
4人兄弟の長男。
小学校1年生のときに戦争が始まり、住んでいた滋賀県彦根市は疎開先として東京や大阪から多くの人が疎開してきたそうです。
疎開してきた子供たちは田舎に住んでいる、田原総一朗さんよりもべんきょうができ、田原総一朗さんは闘争心を燃やしていたといいます。
終戦を迎えたのは5年生のときでした。
敗戦まで田原総一朗さんは軍国少年で海軍に憧れ、海軍兵学校を目指していました。
5年生の1学期までは教師に、
『アジアの国々を独立させるための正義の戦争だ』
と教えられていましたが、敗戦後の2学期には、
『あの戦争は、やってはならない戦争だった。間違いだった』
と正反対のことを言われ、偉い人の言葉は信用できないと常識を疑う原点になったといいます。
中学時代は野球部に所属。
レギュラーでポジションはサード。
高校は彦根東高校に進学。
彦根東高校は滋賀県彦根市にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は68。
義務教育を終えたら働くものだと思っていいたそうで、高校に入学後は家庭教師をして 学費を稼いでいたそうです。
高校でも野球部に所属しますが、レギュラーにはなれず、高校2年生の1学期に退部。
野球部の他に美術部と生徒会にも所属。
中学のときには絵の展覧会で入選をたこともありましたが、高校で周りの人の作品を見て、自分の絵は『絵もどき』だと感じ挫折しました。
両親は高校卒業後は実家から通える京都大学や滋賀大学の入り、バイトをして稼ぎを家に入れてほしいと希望していたそうです。
田原総一朗さんは当時、作家を目指していて東京の私大を目指していました。
そのため両親と喧嘩。
最後は東京の私大に行かせる代わりに学位費は自分で稼ぎ、実家にも仕送りをすることを条件に上京を許されたといいます。
田原総一朗さんは上京後、JTBに入社し働きながら、翌年に夜学の早稲田大学第二文学部日本文学科に入学しました。
大学ではて同人誌サークルに入り、作家を目指し文学賞に何度も応募しますが全滅。
その頃、石原慎太郎さんや大江健三郎さんの本を作品を読み、『僕は作家になれない』と思い挫折。
作家を挫折後、仕事をするなら、作家じゃなければマスコミかなと考え、大学をもう一度受験し、早稲田大学第一文学部国文科に再入学。
学習塾を経営し大学生を雇い20人ほどの生徒に教えて収入を得て、実家の仕送りも続けていたそうです」。
1960年、25歳のとき卒業しました。
田原総一朗 ディレクターからジャーナリストへ
田原総一朗さんはジャーナリスト志望だったため、大学時代に朝日新聞やテレビ朝日、NHK、東京新聞などをマスコミを手当たり次第に受けますが全部不合格。
大学卒業後はやっと合格した岩波映画製作所に入社。
岩波映画製作所ではカメラマン助手をしていました。
1964年、東京12チャンネル、現在のテレビ東京に開局の1ヶ月前に入社。
ディレクターとしてドキュメンタリー番組を手がけました。
日本テレビ、NHK、TBSなどはおもしろいドキュメンタリーを放送していたので、張り合うつもりで、いかに他ではやらない危ない番組を作るかを考えていたそうです。
制作予算は他局の3分の1だったといいます。
当時、開局したばかりの東京12チャンネルは『番外地』と言われるインディーズ的存在でした。
田原総一朗さんはそれを逆手にとり、『過激な題材』を元に、
『やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する』
という手法で番組を制作し話題を呼びました。
1977年1月に東京12チャンネルを退社。
フリーランスとなりジャーナリストに転身しました。
雑誌の連載や『文藝春秋』での田中角栄インタビューなどで徐々に知名度を上げ、1987年4月から『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)の討論の司会進行に就任。
1989年4月から『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系)が放送開始し討論コーナーの司会・出演を務めました。
同年から、テレビ朝日系の選挙特別番組『選挙ステーション』第2部の討論コーナーで司会を務めています。
田原総一朗の若い頃
田原総一朗さんの若い頃の画像。
1981年の田原総一朗、さすがに若い。手にしているのはMGC製コルト32オートだろう。 pic.twitter.com/ID1sR5Vt65
— ナベ (@kzx750f1) June 21, 2015
1981年で田原総一朗さんが47歳の頃の画像です。
フリージャーナリストになって4年目の頃です。
田原総一朗若い pic.twitter.com/eq4ccivPKS
— 素童 (@sirotodotei) June 30, 2016
テレビ東京時代の画像のようで、30代の頃?の画像。
田原総一朗の妻は?
田原総一朗さんは2度結婚しています。
最初の妻は3歳年上のいとこの末子さん。
26歳のときの結婚でした。
当時下宿していた伯母の家で同居するうちに惹かれ合い、周囲の反対を押し切って結婚したそうです。
末子さんは1983年に似がんで54歳の若さで無くなりました。
再婚したの1989年の55歳の頃。
妻は2歳年下の節子さん。
元日本テレビのアナウンサーで、日本テレビにアナウンサーとして17年、その後はCMプロデューサーとして10年勤務しました。
節子さんは前夫と離婚し再婚でした。
節子さんは1998年10月に炎症性乳がんを発症。
再発転移を繰り返し、2004年8月に多臓器不全のため死去しました。
田原総一朗の子供は娘?
田原総一朗さんの子供は2人の娘です。
長女は1963年生まれで、名前は敦子さん。
敦子さんは学生時代から、旺文社・朝日新聞社などで執筆活動を始め、1986年にテレビ朝日に入社。
『スーパーモーニング』、『テレメンタリー』などの番組ディレクターとして活躍。
その後は『徹子の部屋』のプロデューサーを務めていました。
次女は田原総一朗さんのマネージャーを務めていたようです。
コメント