岸部一徳さんは京都出身。
生い立ち、経歴や高校などの学歴は?
タイガース結成の経緯やベースの腕前は?
俳優になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供は息子で俳優?
今回は俳優の岸部一徳さんをリサーチしてみました。
目次
岸部一徳の学歴・生い立ち・経歴
名前 岸部一徳
生年月日 1947年1月9日
出身 京都府
身長 181cm
所属 アン・ヌフ
中学校・京都市立北野中学校
高校・伏見工業高校
大学・進学していません
京都府京都市出身。
本名は岸部修三(きしべ しゅうぞう)
父親は職業軍人で戦時中は憲兵。
9人兄弟の三男。
引越しが多く、小学校だけでも4回転校したそうです。
京都市立北野中学校で後にタイガースを結成することになる瞳みのるさんと同級生となり、一緒に牛乳配達をするなど親交を深めました。
高校は伏見工業高校建築科を卒業。
伏見工業高校は京都府京都市伏見区深草鈴塚町にあった京都市立の高校。
2016年から定時制だけになり、2021年に- 京都市立西京高等学校定時制と統合し。京都奏和高校が開校しました。
伏見工業高校の時の偏差値は45。
高校卒業後はバンド活動をは始めました。
岸部一徳 タイガース結成の経緯は?
岸部一徳さんは中学時代に瞳みのるさんと出会い高校は別々になりましたが、高校2年生の時に再会。
瞳みのるのさん小学校の同級生だった森本太郎と、高校に後輩の加橋かつみさんと4人で遊ぶようになりました。
1964年12月、17歳の時に植物園で音楽をかけて踊っている時に撮られた写真が『踊る若者達』のタイトルで読者写真コンテストの入選作品し京都新聞に偶然に掲載。
翌年の1964年に4人でバンド『サリーとプレイボーイズ』を結成。
岸部一徳さんはベースを担当しました。
『サリー』とは岸部一徳さんのことで背が高かったことからリトル・リチャードの楽曲『ロング・トール・サリー』(のっぽのサリー)から取って『サリー』と仲間からあだ名されていました。
『サリー』はザ・タイガース時代の愛称でもあります。
1966年にサンダースというバンドではローディー兼ボーカリストをしていた沢田研二さんを岸部一徳さんリードボーカルとして誘い加入。
バンド名は『ファニーズ』と改め、京都や大阪で高い人気を得て渡辺プロと契約。
『京都にいてもだめだ、なんて思って大阪に出て、そこからすぐ東京に行ってワーッといろんなことやりましたけど。』
引用 http://www.kyoto-np.co.jp/
同年11月に上京し、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』で番組ディレクターのすぎやまこういちさんに『ザ・タイガース』というバンド名が与えられました。
後に沢田研二さんは、
『大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ』
と言われたと述べています。
岸部一徳 タイガースのブレイクと解散
1967年2月5日、『僕のマリー』をリリースしデビュー。
発売当初はセールスは伸び悩みましたが、翌月の3月から人気が高まり、5月にリリースした2枚目のシングル『シーサイド・バウンド』は40万枚を超えるヒットとなりました。
1968年3月発売の5枚目シングル『銀河のロマンス/花の首飾り』はオリコンシングル・チャートの1位を7週間連続で獲得。
新曲発表会を日本武道館で開催し、武道館コンサートをする初の日本人音楽バンドになりました。
4月にはザ・タイガース初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』が公開。
同年8月には日本初のスタジアム・ライブ『ザ・タイガース・ショー~真夏の夜の祭典』を後楽園球場で開催し、グループサウンズの頂点を極めました。
『ザ・タイガース』はアイドル的な売り出しに成功し大人気になりましたが、芸術家肌だった加橋かつみさんは渡辺プロに反発し、1969年3月にバンドを脱退。
岸部一徳さんの弟に岸部シローさんがが加入しますが、1969年夏からグループ・サウンズのブームが急速に沈滞化。
グループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となり、1971年1月に解散。
その後、1981年11月に『同窓会』と銘打って再結成し1983年まで活動。
2013年12月にはオリジナル・メンバーでの『ザ・タイガース』復活コンサートが複数回開催されました。
岸部一徳のベースの腕前は?
『ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンといったハードロックに影響を受けたベースのテクニックは高く評価され、人気ドラマ『太陽にほえろ!』や『傷だらけの天使』ではメインテーマでベースを担当。』
引用 https://www.oricon.co.jp/
岸部一徳さんのベースのテクニックは高く評価されているようです。
ネットでも岸部一徳さんのベースを評価している声も多いようです。
2003年には木村拓哉さんと共演した『富士通 FMV』ではベースの腕前を披露しています。
岸部一徳が俳優になったきっかけは?
『音楽を10年やって、自分の才能はどの辺なのかも分かり、限界を感じて辞めたときに、たまたま「俳優をやってみないか」と薦めてくれる人に出会ったので、まっさらな気持ちで始めました』
引用 https://www.zakzak.co.jp/
タイガース時代にタイガースのサリーとして本人役で映画に出演することはありましたが、1975年6月から放送さらたTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』で本格的に俳優に転身しました。
それまでは本名の岸部修三で活動していましたが、1976年に女優の樹木希林さんの考案で岸部一徳に改名。
1990年4月公開された主演映画『死の棘』で同映画は、
1990年 カンヌ国際映画祭 審査員グランプリ
岸部一徳さんは、
第14回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞
を受賞。
1993年『僕らはみんな生きている』、2011年『大鹿村騒動記』、2018年『北の桜守』では、
日本アカデミー賞・優秀助演男優賞
を受賞しています。
岸部一徳の結婚歴や妻は?
『あの夫婦は六本木にあるバーのカウンターで偶然出会って結婚したんですが、当時の岸部さんは『ザ・タイガース』を解散して、音楽活動から身を引き、俳優に転身しようとしていた頃でした。』
引用 https://www.news-postseven.com/
岸部一徳さんが俳優に転身したのは1975年。
当時は28歳でした。
妻は一般女性のようです。
妻は2011年にご近所トラブルになり、民事で訴えられ賠償命令が下ったと報じられました。
住んでいたマンションの来客用の駐車スペースの利用から住人と揉めて、車を運転している時に住人に声をかけられ際に車を動かし、住人にバンパーが当たったことから訴えられたようです。
離婚も噂され『女性セブン』が所属事務所に取材した際には離婚について否定も肯定もしなかったそうです。
岸部一徳の子供は息子で俳優?
岸部一徳さんの子供は3人。
『生活的にも苦しい中、3人の子供を育ててくれた糟糠の妻』
引用 引用 https://www.news-postseven.com/
息子は岸部大輔さんでパウンチホイールというバンドでボーカル、ベースを担当しています。
1979年6月生まれ。
2014年には医龍4~Team Medical Dragon~』では岸部一徳さんが演じた野口賢雄の医学生時代の若かりし頃を演じました。
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