菅原文太の結婚や妻、子供は?俳優デビューしたきっかけや死因。学歴・経歴

トラック野郎シリーズなどの活躍で知られる俳優の菅原文太さんの学歴や経歴は?
俳優デビューしたきっかけは?
結婚歴や妻、子供は?
死因や晩年は?

今回は俳優の菅原文太さんについてリサーチしてみました。

菅原文太の学歴・生い立ち・経歴

名前   菅原文太
生年月日 1933年8月16日
没年月日 2014年11月28日(81歳没)
出身   宮城県仙台市
身長   178cm
血液型  O型

父親、母親、1歳年下妹の4人家族。父親は仙台市の河北新聞の記者として勤務しながら、「狭間二郎」の名義で詩人や洋画家としても活動していました。

3歳の時の両親が離婚。母親は家を出て行き、宮城県栗原市にある父親の実家に妹と共に預けられた後、4歳からは東京都に移り小学4生まで育ちましたが、10歳の時に父親が出征すると、再び栗原市に疎開。12歳で終戦を迎えました。

中学校は宮城県築館中学校を卒業。
旧制の中学校で、現在の築館高校にあたります。
築館高校は、宮城県栗原市築館字下宮野町にある県立高校で、現在の偏差値は48。

父親は再婚し、継母はバーを経営していました。

高校は仙台第一高校に進学。
宮城県仙台市若林区元茶畑にある男女共学の県立高校で、現在の偏差値は69。宮城県トップクラスの進学です。
卒業生には作家の井上ひさしさん、漫画家の坂本タクマさんなどがいます。

菅原さんは受験をして合格して入学しましたが、旧制中学から無試験で入ってきた生徒もいて、そんな生徒を見て菅原さんは、

『こいつらには負けられねえ』

と思っていたといい、成績は優秀でした。
学校には父親が戦時中に着用していた将校マントやコートなど着て通学していたといいます。
高校時代は新聞部に所属し、社会問題を多く取り上げ、全国学生新聞のコンクールで賞を獲得したこともありました。

高校卒業後は早稲田大学・第二法学部法学科に進学。
受験で地元仙台市の東北大学を受験しましたが落ちて、1年浪人して早稲田大学に入りました。
大学在学中は仕送りはなく、学費はアルバイトで払っていましたが、学費滞納で2年で除籍になっています。

菅原文太が俳優デビューしたきっかけ

菅原文太さんが俳優デビューしたきっかはスカウトでした。

『178センチの長身と端正なマスクが画家・中原淳一の目にとまり、モデルになったことがきっかけで芸能界入りする。』

俳優になるはの大学在学中には、画家、ファッションデザイナー、イラストレーター、人形作家と多彩な活躍をした中原淳一さんにスカウトされモデルとして活動していました。

1954年、21歳の時には揚げしたばかりの劇団四季に1期生として入団し、端役として多くの舞台に出演。

1957年にはモデル仲間の岡田真澄さんらと日本初の男性モデルクラブ「SOSモデルエージェンシー(ソサエティ・オブ・スタイル)」を設立。

ファッション雑誌やショーでモデルを務めていた1958年、25歳の時に映画会社「新東宝」の宣伝部員に喫茶店でスカウトされ、映画俳優になる決意をし、新東宝に入社。

『体裁ですよ。「私、モデルです」というより、「映画俳優」の方が恰好が良いという程度で……。女郎屋に行くのにわざと台本を持って行って、女の枕元にポンと置いたりしましてね』

2015年のインタビューで、俳優になったのはモデルより俳優の方が体裁が良かったからだと話しています。

同年9月に映画『白線秘密地帯』で本格的に俳優でデビューしました。

「仁義なき戦い」でブレイク

25歳で俳優デビューしましたが、菅原文太さんは「遅咲きのスター」と言われ下積みの期間が長く、1973年の『仁義なき戦い』でブレイクした時は40歳になっていました。

入社後、高身長の俳優を集めて「ハンサムタワーズ」として大々的に売り出されましたが、菅原さんはパッとしませんでした。

入社2年目の1960年になると新東宝の経営が傾き、翌年の1961年夏には事実以上の倒産。

同年に松竹に移籍し、1967年、34歳の時に東映に移籍しすると、1969年からは「関東テキヤ一家」シリーズ、1971年からは「まむしの兄弟」シリーズで主演を務め、1973年1月公開の『仁義なき戦い』でとうとうブレイクしました。

1975年から公開された『トラック野郎』シリーズも大ヒットし、同映画の演技で、

第18回ブルーリボン賞・主演男優賞

を受賞。

1980年の『太陽を盗んだ男』では、

第3回日本アカデミー賞・最優秀助演男優賞

を受賞しました。

菅原文太んの結婚歴や妻、子供

菅原文太さんが結婚したのは1969年、36歳の時でした。

『相手は芸能界とは縁のない女性だった。彼女が再婚だったこともあってか、結婚式は挙げず、新婚旅行もなし。親族、友人に、年賀状で入籍の挨拶をしただけである。』

名前は文子さんで、年齢は9歳年。菅原さんは初婚でしたが、文子さんは再婚でした。
文子さんは後に、菅原さんのマネージャーも務めています。

菅原文太の子供

子供は娘が2人と息子が1人。

1970年に2月に誕生した長男の長男の加織(かおる)さんは俳優として活動。

高校在学中に、映画『恋する女たち』で芸能界デビュー。
テレビ、映画、舞台で活躍し、大河ドラマにも1998年『徳川慶喜』、1999年『元禄繚乱』、2002年『利家とまつ』の3度出演しましたが、2001年10月23日、東京都世田谷区北沢の小田急小田原線の踏切内で上り電車に撥ねられ、31歳で死亡。
携帯電話で話しをしていて、「酒を飲んでいたようだ」との目撃証言があったといいます。

菅原文太の死因や晩年

菅原文太さんは消費社会というものに強い疑問を感じるようになり、1998年から別荘を持っていた岐阜県清見市に妻と共に移住。
田舎暮らしを始め、2009年からは山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って本格的に農業を始め、同年に農業生産法人「竜土おひさまの里農園」を設立。
当時、俳優業は「半分引退した」と語っていました。

2007年には膀胱がんのステージ2が発覚し、医師には膀胱の全摘出を勧められますが、菅原さんは摘出を拒否。
その後、3ヶ月の入院で抗がん剤の3回投与、放射線を23回、陽子線を11回照射する治療を行い、温存療法で5年生存を乗り切りました。
しかし、2012年に肝臓に転移が発覚。妻の文子さんは再発の事実は菅原さんには黙っていたそうです。

再発から2年後の2014年11月13日に定期健診で病院へ行きそのまま入院。
11月28日に転移性肝がんによる肝不全のため、81歳で亡くなりました。

遺作は、声優を務めた2012年7月公開のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』でした。

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