ベテラン女優の草笛光子さんは横浜市出身。
経歴や高校などの学歴は?
若い頃の画像は?
離婚歴があるようですが、元夫との離婚理由や子供は?
今回は女優の草笛光子さんをリサーチしてみました。
草笛光子の高校などの学歴・経歴
名前 草笛光子
生年月日 1933年10月22日
出身 神奈川県横浜市
身長 158cm
所属 草琇舎
高校・神奈川県立横浜平沼高校
大学・進学していません
父親は三菱重工に勤める会社員。
母親は洋裁店やバーを切り盛りしていました。
4人兄弟の長女。
子供の頃は人見知りで虚弱体質。
虚弱体質を克服するために小学生からバレエを習い始めました。
戦争が激しくなった小学4年生の頃、横浜市内の小机にあるお寺に学童疎開。
その後、父親だけを残し群馬県高崎、そこから富岡へ縁故疎開したそうです。
富岡では5歳だった妹が疫病で他界。
終戦を迎えたのは草笛光子さんが12歳になる小学校の最後の年でした。
終戦後は横浜市に戻りましたが、家は焼けてしまっていたため、焼け残った母方の祖父母の家で家族みんなで暮らしたそうです。
学校は横浜市立斎藤分国民学校(旧制小学校)から横浜第一高等女学校に進学。
横浜第一高等女学校は1950年に男女共学化され、現在は神奈川県立横浜平沼高校の名称になっています。
神奈川県横浜市にある県立高校で、偏差値は66の難関校。
高校入学後も子供の頃からの人見知りが続いていて、人の顔を見るのがいやで電車に乗れず、数キロの道のりを歩いて通っていたといいます。
高校時代は創作舞踊のサークルに所属。
サークルの一学年上には後に女優になる岸恵子さんがいました。
草笛光子さんが習っていたバレエに振り付けがありますが、創作舞踊にはそれがなく自分で作るそうで、自分が感じたことを体で表現することが面白かったそうです。
草笛光子の芸能界デビューのきっかけ
草笛光子さんは高校時代に友人に勧められ、松竹歌劇団(SKD)を受験。
松竹歌劇団は1996年まで存在したミュージカル劇団です。
60倍の競争率を勝ち残り見事に合格。
松竹歌劇団に入るのなら、高校は中退しなければならず、学校で頼りにしていた先生に相談すると、
「自分の人生は自分で決めるのが一番。1カ月間、学校を休んで松竹の学校に通ってみなさい。そのうえでどうするか、自分で決めればいい」
と言ってくたといい、草笛光子さんは高校を1ヶ月休み、松竹の音楽舞踊学校に通いました。
1ヶ月レッスンを受け、高校中退を決意し、1950年に松竹歌劇団(SKD)に5期生として入団しました。
草笛光子 女優デビュー・若い頃の画像
松竹歌劇団では、淡路恵子さん、深草笙子さんと共に『スリーパールズ』を結成しトップスターとして活躍。
松竹歌劇団、1952年「秋のおどり」”スリーパールズ”のメンバー。左から草笛光子・深草笙子・淡路恵子。 pic.twitter.com/uk9UOXfN2H
— なおきんぐぅ?? (@Naoking1985) January 11, 2014
1953年7月公開の映画『純潔革命』で映画デビュー。
草笛光子さんのお若い頃のお姿。
あぁ美しい。。。 pic.twitter.com/sHU1nnT9vJ— メシア (@haradannu) January 12, 2015
翌年の1954年に松竹歌劇団を退団。
1956年からの東宝専属を経て、テレビの世界でも活躍。
1958年5月から日本テレビで冠番組『光子の窓』が放送開始。
『光子の窓』は歌ありコントありの本格的バラエティショーでした。
日本ミュージカル界でもパイオニア的存在で、数々の大作に出演し、芸術祭賞を3度受賞しています。
草笛光子と夫の離婚理由や子供
草笛光子さんが結婚したのは1960年。
26歳の頃でした。
元夫は作曲家の芥川也寸志(あくたがわ やすし)さん。
年齢は8歳年上。
芥川也寸志さんは小説家の芥川龍之介さんの三男。
芥川也寸志さんは再婚で、連れ子もいました。
草笛光子さんは結婚を決意した時のことについて、2018年8月にTBS系の『ぴったんこカン・カン』に出演した際に明かしています。
交際中で公認の中だった1959年、草笛光子さんがオペラに主演した時、後の姑が1人で観劇後に楽屋を訪ねて来て、
『光子ちゃん。あなたもこんなにいい舞台をやれたんだから、もう(お嫁に)来て下さってもいいんじゃない』
と言われ、ホロっとしたそうで、
『これはバブちゃん(姑のニックネーム)のために、1回は(お嫁に)行かないといけないかなと思った』
と明かしています。
離婚したのは1962年で結婚生活は1年9ヶ月だったそうです。
離婚の理由については、一部で連れ子との関係がうまくいかなかったといわれているようですが、本人のからは語られていないようです。
草笛光子さんに子供はいません。
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