元マラソン選手の瀬古利彦さん。
記録やオリンピックでの成績は?
大学などの学歴や経歴は?
妻と監督の反対を押し切って結婚したようです。
子供は息子?
今回は元マラソン選手の瀬古利彦さんについてリサーチしてみました。
瀬古利彦の大学などの学歴・経歴
名前 瀬古利彦
生年月日 1956年7月15日
出身 三重県桑名市
身長 170cm
小学校・桑名市立久米小学校
中学校・桑名市立明正中学校
高校・四日市工業高校
大学・南カリフォルニア大学、早稲田大学
三重県桑名市生まれ。
実家は鉄工場。
兄が2人の3人兄弟。
小学校は桑名市立久米小学校、中学校は桑名市立明正中学校を卒業。
小学生の時の夢は『巨人の星』に憧れてプロ野球選手でした。
中学では野球部に所属。
ポジションはピッチャー。
高校に入ったら甲子園を目指そうとも思っていましたが、チームは県大会ですぐ敗退するレベルだたそうです。
1年生時、校内の5キロ走で優勝したことから、陸上部に助っ人を頼まれ手出場すると練習も何もしていない初めての2000mの市の大会で優勝し、さらにに県大会でも当時の三重県記録で優勝し2冠を達成。
野球は一生懸命に練習しても勝てないのに、陸上では優勝したことで『陸上のほううがいいや』と高校は陸上競技の強豪校・四日市工業高校進学。
四日市工業高校は三重県四日市市にある男女共学の県立高校で、偏差値は53。
入学直後から頭角を現し、高校1年で山形インターハイ800mで3位。
高校2年生時には地元・三重インターハイの800m、1500mで優勝し、千葉国体1500m、5000mでも優勝。
3年生時には福岡インターハイにて800m・1500mで優勝しました。
大学は箱根駅伝最多優勝・最多出場を誇る中央大学への入学が決まりかけましたが、早稲田大学OBからの勧誘で、瀬古利彦さんは早稲田大学をを希望。
一般入試を受験しましたが不合格で高校卒業後は南カリフォルニア大学へ在籍しながら浪人生活を送り、翌年の1976年に早稲田大学教育学部に合格しました。
早稲田大学競走部への入部直後に中村清監督からマラソンを勧められ、中距離からマラソンに転向。
1年生の初マラソンで10位なり新人賞を受賞。
2年生の時は福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞を果たし、一躍次代のホープと目されました。
3年生の1978年の同大会で初優勝。
当時、日本人の優勝は8年ぶりでした。
1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場し2位。
このレースの記録は2時間10分12秒で日本学生新記録でした。
同年の福岡国際マラソンは優勝し連覇を達成し、1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出されました。
瀬古利彦の記録
オリンピック開催の年の1980年に早稲田大学を卒業し、中村清監督とともにヱスビー食品に入社。
同年12月の福岡国際マラソンではモスクワオリンピックの金メダリストのワルデマール・チェルピンスキーを破り優勝し3連覇を達成。
記録は自身初の2時間10分を切る、2時間9分45秒でした。
2時間10分を切るのは『サブ10』と言われ、世界トップクラスのランナーに限られます。
2022年現在のマラソン世界記録は2時間1分39秒ですが、1981年の世界記録は2時間8分18秒でした。
1981年2月に30キロの青梅マラソンに出場し、モスクワ五輪銀メダリストのゲラルド・ネイブールに圧勝。
記録は1時間29分32秒で、この記録は2019年にケニアのチェボティビン・エゼキエルに破られるまで、38年間大会記録でした。
3月にははニュージーランド・クライストチャーチでの記録会で、25000mで1時間13分55秒8、30000mで1時間29分18秒8を記録し、世界記録を同時に樹立。
この2つの記録は2011年に破られるまで、国際陸上競技連盟(IAAF)が公認するトラック種目として日本人が唯一保持する世界記録でした。
4月のボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝。
記録は記録2時間9分26秒で大会新記録でした。
しかし、この後のトラック欧州遠征中に脚を故障、1年以上にわたってマラソンのレースから遠ざかることになりました。
1983年2月の東京国際マラソンで1年10ヶ月ぶりにフルマラソンに出場し、日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒の日本最高記録で優勝。
この記録は当時の世界3位の記録でした。
1986年のロンドンマラソンで1年8ヶ月ぶりにフルマラソンを走り優勝。
同年10月ののシカゴマラソンでも優勝。
記録は自己ベストの2時間8分27秒でした。
この記録は当時の日本歴代4位、世界歴代10位の記録でした。
瀬古利彦さんのフルマラソンの戦績は15戦10勝。
優勝できなかったは最初の2回と79年のボストンマラソン、そして2度のオリンピックのでした。
瀬古利彦のオリンピックの成績
瀬古利彦さんはがオリンピックに選出されたのは3回。
出場したのは2回です、
初めて選出された1980年のモスクワオリンピックは、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はできませんでした。
1984年のロサンゼルスオリンピックでは先頭集団につけていたものの、35km手前で後退し始め、優勝したカルロス・ロペスから5分近く遅れた2時14分13秒のタイムで14位という結果に終わりました。
日本人の最高位は宗猛さんはの4位入賞。
瀬古利彦さんは当時のことを、
『25kmぐらいから足にきた感じになり、35kmから40kmで集団のペースが一気に上がりついていけなくなった』
と話しています。
1988年にソウルオリンピックの代表に選ばれますが、選考レースで優勝しましたが記録は平凡で、瀬古利彦さんにに対する救済策ではないかという意見が当時多く出されたといい、代表選考が不透明だったといわれているようです。
ソウルオリンピックでは9位に終わり、タイムは2時間13分41秒でした。
瀬古利彦は妻と監督の反対を押し切って結婚
瀬古利彦さんが結婚したのは1985年6月。
28歳の時でした。
妻は幼稚園の先生だった美恵(よしえ)さん。
馴れ初めはお見合いでした。
1984年のロサンゼルスオリンピック後、当時のヱスビー食品の中村清監督が瀬古利彦さんの結婚相手を募集すると発言。
結果、5日後には段ボール箱がいっぱいになるほどの写真が届いたそうです。
しかし、瀬古利彦さんは知り合いを通じ相手を探していました。
それが妻の美恵さんでした。
美恵さんとの最初のデートを写真週刊誌に撮られてしまい会社に写真が送られてきて、このことが、がん治療で入院していた中村清監督の耳に入り、
『どこの馬の骨か分からない相手と、俺の入院中に何をやってんだ』
と言われたといいます。
中村清監督と瀬古利彦さんは早稲田大学に入学からの師弟関係で、中距離からマラソンに転向することを勧め、大学卒業後に瀬古利彦さんがヱスビー食品陸上部に入った際には早稲田大学と兼務する形でヱスビー食品陸上部の監督に就任。
大学入学以来、食事も一緒にしており1年365日寝食を共にしていたといっても過言ではないといいます。
瀬古利彦さんは生活を徹底管理され人間として駄目になりそうで、親離れを訴えてたそうで、そのため、『見てもいないのに何で分かるんですか』と口ケンカになったそうです。
後日、会社にやってきた記者と上司を交え3人で話し合い、そこで瀬古利彦さんは『写真が出た瞬間に引退する』と強気に発言。
慌てた記者を説得し、1984年11月の婚約発表まで掲載を待ってもらったそうです。
その後、結婚まで1ヶ月に迫った1985年5月、中村清監督が趣味の渓流釣りで岩から足を滑らせ転落死。
中村清監督は突然の別れを予期したかのように、妻となる美恵さんを何度も自宅に呼び寄せてはアスリートの妻になるとはどういうことかや、料理や精神面などもについても指導してくれていたそうです。
瀬古利彦の子供は息子?
瀬古利彦さんの子供は4人。
4人全員息子で名前は、
長男は昴(すばる)さん
次男は亜士武(あとむ)さん
三男は天哩(てんり)さん
四男は聖醐(せいご)さん
長男の昴さんは1986年生まれで、2012年に悪性リンパ腫の一種であるホジキンリンパ腫を発症し、入退院を繰り返しながら闘病していましたが、2021年4月13日に34歳でこの世を去りました。
次男の亜士武さんはミズノで働いているようです。
三男の天哩さんは1992年生まれで陸上競技の経験者で、東海大浦安高校時代に800メートルで高校総体出場。
東海大学でも陸上部に所属していましたが、負傷続きで2年生の12月の同級生のマネジャー選挙で24票中19票を獲得し、マネジャーに転向しました。
四男は聖醐さんは高校でアメフト部に在籍し、早稲田大学に進学したようです。
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