淡谷のり子の結婚歴や夫、子供は?歌手デビューしたきっかけや学歴・経歴。死因や晩年

「雨のブルース」や「別れのブルース」のヒット曲を持ち、ブルースの女王と呼ばれた歌手の淡谷のり子さんの学歴や経歴は?
歌手デビューしたきっかけは?
結婚歴や夫、子供は?

今回は歌手の淡谷のり子さんをリサーチしてみました。

淡谷のり子の学歴・経歴

名前   淡谷のり子
生年月日 1907年8月12日
没年月日 1999年9月22日(92歳没)
出身   青森県青森市
身長   150cm
血液型  A型

父親、母親、2歳年下の妹の4人家族。
実家は呉服屋「大五阿波屋」。青森屈指の豪商で、淡谷さんが幼少期には奉公人30人以上を抱える裕福な家庭でした。
毎日、重箱に当時は高級菓子だったマシュマロやチョコレートが用意されていたといいます。

しかし、1910年5月、淡谷さんが2歳の時に、菓子製造工場からの出火が原因で青森市内5200戸以上が焼失した「青森大火」が発生。
この家事で実家、店の「大五阿波屋」も焼失し被災。
父親は再建を目指しましたがうまくはいかず、店は他人の手に渡りました。

小学校卒業後は旧制青森高等女学校に進学。
青森市大字浦町字野脇にあった県立の旧制女学校で、1907年に創立。
1948年に学制改革で青森県立青森女子高校となり、1950年には男子校だった青森高校と統合され、男女共学の青森県立青森高校が開校。
現在の青森高校は青森県トップの進学校で偏差値は71。
卒業生には小説家の太宰治さん。劇作家の寺山修司さんなどがいます。

父親は裕福だった頃の放蕩癖が直らず、実家は破産。
父親に愛想をつかした母親は1929年に離婚。
同年に女学校を退学し、母親、妹と3人で上京しました。

上京後は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)のピアノ科に入学。

入学の半年後には関東大震災が発生。
自宅は無事でしたが、母親の収入は途絶え生活は厳しくなったといいます。
食事もままならなくなり、栄養失調が原因で妹が失明の危機に陥ったため、淡谷さんは学校を1年間休学し画家のヌードモデルをして治療費と学費を稼ぎ、1926年に東洋音楽学校に復学。
1929年に東洋音楽学校を卒業し、翌年の1930年に歌手デビューしました。

淡谷のり子が家手デビューしたきっかけ

淡谷のり子さんが東洋音楽学校の入学したのは、音楽好きだった母親の勧めでした。

『これからは、女の人も、男の稼ぎをあてにせずに生きていかれるように、きちんと専門的な職業を身につけておいた方がいい』

ピアノ科に入ったのは母親の「ピアノを学べば将来は音楽教師になって生計を立てることができる」との考えからでした。
しかし、ピアノになじめず、声楽科への編入試験が行われることを知り受験。
17名中1人の合格予定者の狭き門でしたが合格。クラシック音楽の基礎を徹底的に学び、オペラ歌手を目指しました。

休学を経て、1929年に首席で卒業。女性の首席は東洋音楽学校で初でした。
卒業後間もなく、読売新聞主宰の「オール日本新人演奏会」で母校の代表として歌うと「十年に一人のソプラノ」と絶賛され、翌年の1930年に『久慈浜音頭』で歌手デビュー。
クラシック歌手では生計が成り立たず、家計を支えるために稼ぎのいい流行歌手としてのデビューでした。

別れのブルースが大ヒット

初めてのヒットは1931年の『私此頃(このごろ)憂鬱よ』。
1935年にはシャンソン曲『ドンニャ・マリキータ』がヒットし、日本におけるシャンソン歌手の第1号となりました。

日中戦争が勃発した1937年に発売した『別れのブルース』が100万枚を超える大ヒットを記録し、一気にスターダムへ駆け上がり、翌年の1938年に発売した『雨のブルース』もヒット。
「ブルースの女王」と呼ばれましたが、戦争が本格化すると洋楽が禁止になったことにともない、淡谷さんの『別れのブルース』や『雨のブルース』も発売禁止にになり、軍国歌謡や軍歌を歌うことを要請されましたが、淡谷さんは拒絶。
軍隊の慰問には積極的に回りましたが、自分の歌を歌うことを弾圧した軍からお金を貰いたくないとの思いから、無料で回っていたといいます。

終戦後、1948年に発売した『嘆きのブルース』『君忘れじのブルース』は連続でヒットし、1953年には第4回NHK紅白歌合戦に初出場。
1971年には第13回日本レコード大賞特別賞、1972年には紫綬褒章などを受賞しています。

ものまね審査員として活躍

1980年代にフジテレビの『ものまね王座決定戦』に審査員として出演。
辛口の批評から名物審査員として人気を博しました。

番組では「ものまね四天王」の一角として活躍した清水アキラさんのネタの下品さを嫌い、事実上の最低点である「8点」をつけ続け、清水さんが淡谷さんのものまねをして淡谷さん以外の審査員は全員10点をつけた時も8点をつけ、98点でした。

1989年3月に研ナオコさんの『夏をあきらめて』のものまねをした時には、とうとう淡谷さんを笑わせることに成功し、淡谷さんも「10点」をつけ100点となり、清水さんは泣き崩れました。

淡谷のり子の結婚歴や夫、子供

淡谷のり子さんが結婚歴は1回で、1931年、24歳の頃に1歳年下でジャズピアニストだった和田肇さんと結婚しました。
和田さんは東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒業後、ジャズピアニストとして活躍し、華麗なテクニックで日本の歌謡曲もジャズ風に演奏していました。
馴れ初めは和田さんが淡谷さんの伴奏を務めたことでした。

しかし、4年後の1935年に離婚したようです。
その後、再婚はしませんでした。

子供は娘が1人で1938年に誕生。
未婚で出産し、娘の父親は生涯明かしませんでした。

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