東京都出身の放送作家、作詞家、タレント・永六輔さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
放送作家になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供は娘と息子?
今回は放送作家の永六輔さんをリサーチしてみました。
永六輔の学歴・生い立ち・経歴
名前 永六輔
生年月日 1933年4月10日
没年月日 2016年7月7日(83歳没)
出身 東京府東京市浅草区(現・東京都台東区)
血液型 AB型
小学校・南大井国民学校
中学校・長野県立上田中学校 早稲田中学校カ(旧制)
高校・・早稲田高校
大学・・早稲田大学文学部(中退)
本名は永 孝雄(えい たかお)。
実家は元浅草にある浄土真宗の最尊寺で、父親は住職。
祖先は中国から渡って来たといい、祖父や、父親は『永』の苗字を『ヨン』と名乗っていたといいます。
6人兄弟の次男。
幼少期は大人になった軍人になりたいと思っていましたが、病弱で体が弱く、2歳から東大病院、その後聖路加病院に通院・入院し、治療を受けていました。
国民学校の時には『虚弱すぎる』という理由で特殊学級・幕張学園に移りました。
その後は、下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていましたが、東京大空襲で自宅が焼失。
その後、学童疎開で長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、長野県で終戦を迎えました。
1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学しましたが、翌年に東京の戻りり早稲田中学校(旧制)に2年編入。
この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになり、コントの募集に応募し1本採用されると、当時のアルバイトの日給を超える額を稼げたといいます。
この時期に学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高校に昇級進学。
早稲田高校時代は映画研究部を創立。
1951年に早稲田高校を卒業し、1952年に早稲田大学第二文学部入学。
大学は同年に退学しました。
永六輔が放送作家になったきっかけは?
大学時代には『日曜娯楽版』の台本を書くのアルバイトの域を超え、講義の間も仕事していると、『日曜娯楽版』の発案者の三木鶏郎さんにスカウトされ、三木鶏郎さんさんが作っていた『トリロー文芸部』のメンバーとなり、放送作家、司会者としてデビューし、大学は中退し本格的に仕事を始めました。
日本でテレビ放送が始まる前の実験放送からテレビに関わっています。
当時、放送作家は先輩がいないジャンルの仕事だったため自由に出来たといい、『放送作家』の先駆者となりました。
永六輔 作詞家、タレントとしても活躍
20代前半から、ラジオ・テレビ番組の企画・演出に携わり、ピアニストで作曲家の中村八大さんらと組んで、坂本九さんの『上を向いて歩こう』や梓みちよさんの『こんにちは赤ちゃん』などの作詞も手掛けました。
タレントとしても『わんぱく問答』、『2×3が六輔』などで司会を担当し、多くの番組に出演し軽妙な語り口と歯に衣着せぬトークで人気を集めました。
2016年6月にTBSラジオの『六輔七転八倒九十分』が終了し、全レギュラー番組を降板。
その後、2016年7月7日に肺炎のために東京都内の自宅で死去していたことが発表されました。
83歳でした。
永六輔の結婚歴や妻は?
永六輔さんが結婚したのは1955年、22歳の時でした。
妻は元女優の酒井昌子さん。
年齢は1歳年下。
永六輔さんがまだ無名の放送作家だった頃に、日本テレビの廊下で、女優デビューしたばかりだった酒井昌子さんを見て一目惚れ。
『君は女優よりも僕の妻になるべき人だ』
と強引に口説き、結婚したそうです。
結婚後も永六輔さんは昌子さんにベタ惚れで、愛妻家で知られました。
しかし、2001年6月に末期がんと診断され、2002年に68歳で他界しました。
永六輔の子供は何?
永六輔さんの子供は娘が2人。
1959年に長女の永千絵さん
1961年に次女の永麻理さん
が誕生しています。
長女の永千絵さんは、成城大学文芸学部英米文学科卒業で映画エッセイスト。
次女の永麻理さんは、慶應義塾大学文学部社会学科を卒業後、、フジテレビにアナウンサーとして入社。
FNNスピークのキャスターなどを務め、1991年から1993年までの2年間ニューヨーク支局駐在し、帰国後にフジテレビを退社。
退社後はフリーアナウンサー、エッセイストとして活動していました。
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