児玉清の結婚歴や妻は?子供は娘と息子。俳優になったきっかけ。死因・晩年や学歴・経歴

クイズ番組「パネルクイズ アタック25」の初代司会者を務めたことで知られる俳優の児玉清さんの学歴や経歴は?
俳優になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供は娘と息子のようです。
死因や晩年は?

今回は俳優の児玉清さんをリサーチしてみました。

児玉清の学歴・経歴

名前   児玉清
生年月日 1934年1月1日
没年月日 2011年5月16日(77歳没)
出身   東京府東京市滝野川区(現・北区)
身長   178cm
血液型  O型

幼少期に講談本に出会い面白さに目覚めてたこときっかけで本に夢中にり、子供の頃から文学少年でした。読んでいた本は歴史小説、ミステリー小説、純文学など幅広かったといいます。

小学生だった11歳の時に群馬県吾妻郡中之条町の四万温泉に集団疎開。
疎開先四万温泉の田村旅館(現・四万たむら)で、当時の同窓生とは、大人になっても交流が続いていました。
毎年のように四万温泉に訪れ、「第二のふるさ」と愛していたといいます。

高校は工芸高校を卒業。
東京都文京区本郷にある男女共学の東京都立高校で、設置学科は「アートクラフト科」、「マシンクラフト科」、「インテリア科」、「グラフィックアーツ科」、「デザイン科」の5学科。現在の偏差値は55~59。
高校時代は外国文学に傾倒し、オーストリアの作家・シュテファン・ツヴァイクにのめり込んでいたといます。

高校卒業後は学習院大学・文学部ドイツ文学科に進学。
東京都豊島区目白にある私立大学で、偏差値は56。1年の浪人生活を経て合格しました。
ドイツ文学科を選んだのはこ高校から心酔してた、シュテファン・ツヴァイクの作品を、

『原文で読みたい』

と思ったからだといい、大学卒業後は文学者になりたいと思っていまいした。

児玉清が俳優になったきっかけ

大学時代は演劇部に入り大道具を担当していましたが、1年先輩でフランス文学科の篠沢秀夫さんに「上背があるから」との理由で、篠沢さんが企画したフランス語劇「ブリタニキュス」の主役に抜擢。強引に舞台に出演させられたといいます。
フランス語は全くわかりませんでしたが、演技は評価されたそうです。

大学卒業後は大学院への進学を予定していましたが、卒業時で母親が急死。父親は高齢で仕事は引退していたことから、児玉さんは急遽就職先を探すことになりましたが、卒業後間もなくだったため就職はなかなか決まりませでした。

そんな頃に、演劇部だった児玉さんが俳優志望だと思った友人が勝手に応募した、東宝映画第13期ニューフェイス書類審査合格の知らせが届いたといます。

『面接当日、亡くなった母の声が聞こえたような気がしたのです。「行くだけ行きなさい」と。』

俳優志望ではなかった児玉さんは面接を受ける気はありませんでしたが、当時に思い立ち会場に向かったといいます。

行ってみると水着審査があり、海パンを持っていなかった児玉さんは帰ろうとすると、スタッフに引き止められ、

『君、パンツははいているよね?だったらパンツで出ちゃえよ』

と言われ、下着姿で出場し合格しました。

「雑魚」と呼ばれて一念発起

1958年に東宝ニューフェイス第13期として東宝に入社。
同年12月に映画『隠し砦の三悪人』で俳優デビューしましたが、本来は文学者を目指していた児玉さんは俳優業は不本意で身が入っていなかったこともあり、回って来る役はエキストラで、通行人役などが続きました。

転機となったの芸能界入りした翌年の1959年で、ロケ先だった福岡県福岡市で年下のスター俳優に誘われて喫茶店に入いり、ウェイトレスが児玉さんにもサインを求めると、年下のスター俳優が、

『この人は雑魚だからサイン貰っても仕方がないよ』

と発言。この言葉に児玉さんは、

『コーヒー代くらい雑魚でも払えますから』

とその場を立ち去り、「10年間は俳優として頑張ろう!」と心に誓ったといます。

その後はセリフがある役を得るようになりましたが、相変わらずの端役が続き、1960年の黒澤明監督の『悪い奴ほどよく眠る』では、「とにかく目立とう」と必要以上に大げさな演技やフレームインを繰り返し黒澤監督を激怒させました。後に黒澤監督が影で児玉さんのことを「あの血気盛んさを10年持ち続ければものになる」と評価していたことを聞き、腰が砕けたと話しています。

注目されたのは2年後の1961年公開の映画『別れて生きるときも』で司葉子さんの初恋の相手役に抜擢されたことをきっかけでした。
1967年に東宝を退社しフリーとなり、1970年に出演したTBSドラマ『ありがとう』で人気を獲得。
1975年4月年からはテレビ朝日系のクイズ番組『パネルクイズ アタック25』の司会者となり、36年にわたり司会を担当しました。

児玉清の結婚歴や妻

児玉清さんが結婚したのは1964年8月、30歳の時でした。
妻は2歳年上で、同じ東宝所属の女優だった北川町子さん。

北川さんは1949年、高校時代に撮影所に見学にいった時に声をかけられ、1950年1月に高校を中退し東宝に入社。
1953年の映画『逃亡地帯』に主演の三國連太郎さんの情婦役を演じ、以降は東宝の中堅女優として活躍しました。

馴れ初めは、1964年のテレビドラマ『サラリーマン義経君奮戦記』での共演で、東宝撮影所演技課から、

『京都に一人で行けない女優がいるので一緒に行ってほしい』

と頼まれ、やむなく引き受けたことで出会い、児玉さんは北川さんに映画での印象と違い真面目で控えめで感じがよく、相性がいいのか居心地よく感じたといます。
児玉さんが北川家に婿入りする形で、出会って4ヶ月結婚。北川さんは1967年以降は女優業を引退しています。
当時はまだ児玉さんは売れる前で、北川さんは中堅女優だったことから、北川さんの引退は会社からばかりではなく俳優仲間からも惜しまれたといいます。

児玉清の子供は娘と息子

児玉清さんの子供は娘と息子の2人で、娘は1966年、息子は1969年に誕生しています。

児玉さんは2001年にテレビドラマ『HERO』の出演依頼を一度断った際に、当時、マネージャーを務めていた娘に、

『泣く子が黙るようなキムタクさんが出るんだから。彼の目の前を歩くだけで良いから、出なさい』

と説得され、一転して出演を決めたといいます。
しかし、娘は翌年の2002年に当時、4歳だった息子を残し、スキルス胃癌により36歳の若さで他界しています。

息子は元俳優で、児玉清事務所代表取締役兼事務用品の販売・卸会社の株式会社チカダ代表取締役社長の北川大祐さんです。
デビューは1988年5月にテレビ朝日で放送さらたドラマ『火曜スーパーワイド・手料理かあさんと高校生花嫁の新家族ゲーム』で児玉さんと共演しています。
CMなどにも出演した後、引退しました。

児玉清の死因と晩年

2011年2月に体調不良を訴え、都内の病院で検査をしたところ胃がんが発覚。
3月に検査入院した際には肝臓への転移も見つかり、既に手術が不可能な状態でした。
4月に肝機能障害で緊急入院し、療養していましたが、5月に入って容態が急変し、2011年5月16日に胃がんのため、77歳で亡くなりました。

遺作は2010年に出演した大河ドラマ『龍馬伝』で、主人公・坂本龍馬の父である坂本八平を演じました。

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