児嶋一哉の嫁との馴れ初めや子供、演技力や高校、大学の学歴、経歴

俳優としても活躍しているアンジャッシュの児嶋一哉さん。

結婚しているようですが、嫁との馴れ初めは?

子供はいるのでしょうか?

演技力や俳優の仕事が増えたきっかけは?

高校などの学歴や経歴は?

今回はお笑いコンビ・アンジャッシュの児嶋一哉さんをリサーチしてみました。

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児嶋一哉の嫁との馴れ初めや子供

児嶋一哉さんが結婚したのは2011年9月。

39歳のときでした。

嫁は元タレントの坪井志津香さん。

嫁の坪井志津香さんは1976年9月6日生まれで、児嶋一哉さんの4歳年下。

結婚時は35歳でした。

坪井志津香さんは岡山県出身で、エルセーヌ主催の第7回ミス・テラクイーンで合格したことがきっかけで芸能界リ。

1995年7月に「Lemon Sugar VS TOo’s」というアイドルグループのメンバーとしてメジャーデビューしますが、売れずグループは解散。

解散後はタレントとして活動しながら、2003年9月からは『NO BOTTOM!(ノーボトム)『』というお笑いと音楽をミックスしたテクノ音楽グループに参加し初代ボーカルを担当しました。

児嶋一哉さんと嫁の坪井志津香さんの馴れ初め・出会いは1994年ごろ。

交際期間15年で結婚。

児嶋一哉さんは嫁の坪井志津香さんについて、

『僕の中にはこの人しかいない! って思ったんですよ』

と話しています。

出合った1994年は『アンジャッシュ』を結成して1年目。

出合った当時、児嶋一哉さんは22歳で、坪井志津香さんは19歳だったそうです。

嫁の坪井志津香さんは、児嶋一哉さんにとって初めての彼女だったといいます。

児嶋一哉さんと坪井志津香さんに子供はいないようです。

児嶋一哉の俳優としての演技力

俳優としても活躍している児嶋一哉さん。

児嶋一哉さんが初めて俳優として演技をしたのは2008年公開の映画『トウキョウソナタ』

この映画が、第61回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞、第10回アジア・アラブ映画祭、大賞、第44回シカゴ国際映画祭、審査員大賞、など国内外で賞を受賞したこともあり、児嶋一哉さんの演技力も高く評価されたようです。

『(トウキョウソナタの出演)そこからめちゃくちゃドラマとか映画のオファーを頂けるようになった』

と児嶋一哉さんは話しています。

実はこの『トウキョウソナタ』は同じ事務所のドランクドラゴンの鈴木拓さんに来たオファーだったそうで、スケジュールの都合で受けられなかったことから、当時のマネージャーが代わりに児嶋一哉さんを推薦したことから起用が決まったといいます。

この2008年公開の『トウキョウソナタ』以降、俳優のオファーが殺到するようになり、2011年には、

8本のドラマと2本の映画

に出演しています。

プロデューサーや監督の間でも演技力の評価は高いようで、児嶋一哉さん本人も、

『あまり個性の強いキャラクターを演じたことがない』

と言っているように、芸人枠や色物ではなく、俳優として起用されているようです。

2020年にはTBS系のドラマ『半沢直樹』にラスボス・柄本明さん演じる箕部啓治幹事長の元秘書という重要な役どころで出演しました。

児嶋一哉の高校や大学の学歴・経歴

孤児一哉さは1972年7月16日生まれ。

東京都八王子市出身。

身長は178.5cm

父親は内装業。

小学生のときは、地元の八王子では強豪だった、サッカーチームに所属しキャプテンを務めていたそうです。

中学は八王子市立元八王子中学校

中学時代は陸上部に所属。

中距離の選手でした。

中学時代は、運動神経もまぁまぁ良く、リレーの選手などにも選ばれ、成績も勉強を頑張りクラスで5番ぐらい、体が大きく、目立つ存在だったそうで、バレンタインにも2、3個チョコを貰い、まぁまぁモテたそうです。

芸能界に入りたいと思ったのは中学時代。

児嶋一哉さんはお笑い芸人になりたいというよりは芸能人になりたかったようです。

児嶋一哉さんの小学生のころは、たのきんトリオ、松田聖子さんなどアイドル全盛時代で、憧れていたのは、近藤真彦さん。

自分もアイドルになりたいと思い、ジャニーズ事務所に履歴書を送ったことがあるそうです。

他に、映画のオーディションや、芸能事務所のオーディションも受け、雑誌で原宿でスカウトさてデビューしたとのコメントを見て、わざわざ原宿へ行ってスカウトを待ったこともあったと話しています。

高校は日野高校に進学。

日野高校は東京都日野市にある男女共学の都立高校。

偏差値は53

活発でまぁまぁモテて、目立つ存在だった中学時代から一変、高校時代は地味な存在だったといいます。

『あんまり高校に行かずにさぼっちゃって。修学旅行も文化祭も体育祭も1回も顔を出さない、ちょっと気持ち悪いやつになっちゃったんです。共学なのに女の子としゃべった記憶もない。』

引用 https://bunshun.jp/

その理由について児嶋一哉さんは、中学時代に芸能界に入ると決めており、高校は辞めるつもりで入ったそうで、文化祭や体育祭などではしゃいでる同級生を、一歩引いてみていたといい、修学旅行も度も行ったことがないそうです。

『すっごい引いてたんですよ。やなヤツでしょ。でも芸能界目指してるとは表立って言わないんですよ。だから周りからみたら、なんだこいつ気持ち悪いって思われてたと思う。』

引用 https://bunshun.jp/

後に相方になる渡部建さんと出合ったのは同じクラスになった高校2年生のとき。

同じクラスではあったものの、遊ぶ仲間ではなかったそうです。

高校3年生のとき、同級生が妹だった、お笑い芸人のヒロミさんに弟子になりたいと伝えてもらい、高校卒業後に直接会って気もち伝えますが、ヒロミさんは『俺が弟子なんかとってもしょうがない』と断られたそうです。

そのとき、ヒロミさんのマネージャーから、

『うちの事務所でお笑い養成所が始まるらしい』

と教えてもらいオーデションを受けたそうです。

児嶋一哉さん大学には進学しませんでした。

児嶋一哉 アンジャッシュ結成

人力舎の養成所『スクールJCA』のオーディションを受けることを決めた児嶋一哉さんは、わざと締め切りギリギリに履歴書を提出。

理由はオーディション番号から、何人くらい受験するか把握するためだったそうです。

番号は107だったそうですが、オーディション会場に行くと受験者は7人。

事務所がカッコつけるために、100から番号をつけていたんだとか。

合格者は7人中6人、と1人補欠合格。

児嶋一哉さんは補合格だったそうです。

児嶋一哉さんはオーディション中、全然目も合わせない、声も小さいなど、審査委員から見ると芸人には向かないヤバイやつという感じだったといいます。

しかし、受験者が少なかったこともあり、審査員に『(入学金の)60万払えるか』と聞かれ、『払えます』と言ったら補欠合格になったそうです。

ちなみに、合格と補欠合格に違いはなかったといいます。

児嶋一哉さんは1922年にピン芸人としてデビュー。

とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンなどの同級生コンビに憧れていた児嶋一哉さんは、高校の同級生に声をかけ、断られ続け5人目の渡部健さんと1993年に『アンジャッシュ』を結成。

渡部健さんは当時大学2年制で、児嶋一哉さんに『お前しかいいない』『お前のこと面白いと思っていたから』と誘われ、大学の遊びも落ち着いていた時期だったこともあり面白そうだと思い、快諾したそうです。

渡部健さんが実は5人目だったと話したのは結成10年目ぐらいだったそうです。

『アンジャッシュ』結成後、最初は児嶋一哉さんがリーダーとしてネタをいていましたが、半年後にはリーダー交代を交代し、ネタも2人で書くようになりました。

結成1年目ぐらいから『すれ違いコント』『勘違いコント』を始め、フジテレビの『ボキャブラ天国』などに出演。

1999年からはNHKのお笑い番組『爆笑オンエアバトル』の常連出演者となり、2003年には5代目チャンピオンになっています。

2008年に出演した映画『トウキョウソナタ』の演技が評価され、俳優としての活動も増え、2011年ごろからは、児嶋一哉さんのイジられ芸やキレ芸に注目が集まり、ソロとしのバラエティでの活躍も増えました。

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