広島県出身の元女子プロバレーボール選手・栗原恵さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
バエーボールを始めたきっかけは?
現役時代の活躍は?
結婚歴や夫、子供は?
今回は元バレーボール選手の栗原恵さんをリサーチしてみました。
栗原恵の学歴・生い立ち・経歴
名前 栗原恵
生年月日 1984年7月31日
出身 広島県佐伯郡能美町(現・江田島市)
身長 187cm
血液型 B型
所属 LDH JAPAN
小学校・能美町立鹿川小学校
中学校・能美中学校 大津中学校
高校・・三田尻女子高校
大学・・大学には進学していません
父親、母親、3歳年上の兄の4人家族。
父親の職業は不明ですが2016年に定年退職しています。
両親は共働きでした。
兄は美容師をしています。
瀬戸内海に浮かぶ海も山もある自然に囲まれた能美島で生まれ育ち、小学生の頃は島内の名勝・入鹿明神社の前の海岸で泳ぐことが大好きで、夏休みになると毎日のように父親に連れて行ってもらっていたそうです。
小学校は能美町立鹿川小学校を卒業し、中学校は能美町立能美中学校に入学。
現在は江田島市立。
小学4年生の時にバレーボールを始め、バレーが上手くなりたいという思いから、中学2年生の時にバレーボールの強豪校・姫路市大津中学校に転校。
高校は三田尻女子高校に進学。
三田尻女子高校は2003年に改称され、現在は誠英高校になっています。
山口県防府市東三田尻にある男女共学の私立高校で、偏差値は38~48。
バレーボールの強豪校で、全国大会で何度も優勝しています。
高校時代は1年生の時に、インターハイ・国体・春高バレー優勝の高校3冠を経験。
2年生の時に全日本代表初選出され、3年生の時に日米対抗に出場し代表デビュー。
高校卒業後は、Vリーグ(プレミアリーグ)のNECレッドロケッツに入団しました。
栗原恵がバレーボールを始めたきっかけは?
栗原恵さんがバレーボールを始めたのは両親の影響でした。
父親はママさんバレーの監督を務め、母親はチームの選手で、栗原恵さんは幼稚園の時から3歳年上の兄と両親の練習場に行き、2人でパスの練習をしていたそうです。
ボールを打つのが楽しくて、早くバレーボールを始めたいと思っていましたが、少年団は小学4年生からで、4年生になって鹿川フラワーズに入り本格的にバレーボ-ルを始めました。
チームに入った時は、『やっと始められた!』と嬉しかったと話しています。
強いチームではなく、当初は栗原恵さんはその中でも上手い選手ではなかったそうですが、身長がみんなよりも頭一つ大きかったことから、ずっとアタッカーをやらせてもらっていたそうです。
バレーボールが楽しくて、少年団の練習だけでは物足りず、自宅の庭にボールをつるしてもらって、自宅でもスパイクの練習をしていたといいます。
栗原恵 中学2年生からバレー留学
栗原恵さんは地元の能美中学校に入学する頃には、身長はすでに170cm後半になっていいました。
その恵まれた体格が関係者の目に留まり、2年生になる頃に、全国大会に毎年のように出場する強豪校の兵庫県姫路市立大津中学校から声がかかったといいます。
当時、栗原恵さんは日本代表に入る少女を描いた漫画が大好きで、その影響で自分もバレーボール選手になりたいと思っていて、もっと上手くなりたいと思っていました。
練習を見に行くと、地元の中学校とのレベルの違いに驚いたといます。
1学年が30人の1クラスの地元の中学校から、1学年1クラスもあるマンモス校に単身で入るのは勇気も必要で、悩みましたが決断を迫られた時、母親の、
『やって後悔するか、やらないで後悔するかは自分で決めなさい』
との言葉で転校を決意しました。
2年生の6月に大津中学校に転校後は、バレー部の同級生が住むアパートの1室を借り、1人暮らしをしながら学校に通い、食事はその同級生の母親がサポートしてくれ、両親も毎週末、仕事が終わった後に片道5時間かけて来てくれたそうです。
中学3年生の時には、兵庫県代表として全国都道府県対抗大会アクエリアスカップ(現・JOCジュニアオリンピックカップ)に出場、オリンピック有望選手賞を受賞しました。
栗原恵の現役時代に活躍は?
2003年にNECレッドロケッツに入団後、5月の黒鷲旗大会では若鷲賞を受賞、11月のワールドカップでは、大山加奈さんと共に『メグカナ』と呼ばれ、全国的人気を博しました。
翌年に2004年アテネオリンピックに出場、結果は5位でした。
2004年10月に『NECのバレースタイルと、自分のスタイルが合わない』との理由でNECレッドロケッツを退団し、11月にパイオニアレッドウィングスに入団しました。
Vリーグの『シーズン開幕後に移籍した選手はリーグ戦の参加を認めない』との規定から出場できず、2005年5月の黒鷲旗大会で公式戦に出場し優勝に貢献。
2005-2006年シーズンは、パイオニアの2季ぶりの優勝に大きく貢献し、最高殊勲選手・サーブ賞・ベスト6賞を獲得。
2007年に日本代表に復帰し、同年ワールドグランプリでは24年ぶりの優勝に大きく貢献、全出場選手トップのスパイク打数を記録しまいた。
2008年北京オリンピックではエースとして5位入賞に貢献。
2009年、ワールドグランドチャンピオンズカップで左膝半月板を断裂、翌年の2010年3月に半月板の手術を行い、半年のリハビリを経て、同年10月の世界選手権に出場し銅メダルを獲得。
2011年2月には左膝軟骨損傷を手術を行い、治療に専念するため、6月にパイオニアを退団。
9月にロシアスーパーリーグのディナモ・カザンに移籍、翌年の2012年3に退団。、
同年6月に2年ぶりに日本代表に選出されましたが、2012年ロンドンオリンピック代表メンバーからは外されました。
2012年からLDH JAPANに所属。
同年7月に岡山シーガルズに入団、2014年6月に退団し同年9月に日立リヴァーレへの移籍。
2016年1月23日の対デンソー戦で通算出場試合数が230試合となりVリーグ栄誉賞の受賞資格を獲得。
2016年9月、脳血栓のために入院、。リハビリを経て2017年1月に試合に復帰。
2018年2月、日立リヴァーレを退団し、同年6月にJTマーヴェラスに移籍。
2019年6月に、34歳で引退を発表しました。
引退後は、2021年5月にデジタル写真集『Princess, Again』を発売。
モデルとしても活動し、2023年8月にはデルとしてランウェイデビューしています。
栗原恵の結婚や夫、子供は?
栗原恵さんは結婚はしておらず、独身で夫、子供はいません。
結婚願望は現役時代からあまりまかったといい、2022年5月にテレビ番組で、
『最近、SNSとかに“そろそろ結婚は?”とかすごい来るようになって』
『すごい余計なお世話だなって思います』
と話し、結婚については、
『両親がすごく楽しそうにやっているので、そういうタイミングが来ればできたらいいなくらいには思っています』
と話しました。
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