石川県出身の俳優、舞踏家、演出家・麿赤兒さん。
生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?
俳優になったきっかけは?
結婚歴や妻は?
子供は何人?
今回は俳優の麿赤兒さんをリサーチしてみました。
麿赤兒の学歴・生い立ち・経歴
名前 麿赤兒(まろ あかじ)
生年月日 1943年2月23日
出身 石川県金沢市
身長 170cm
所属 キャメルアーツ
高校・・畝傍高校
大学・・早稲田大学第一文学部哲学科
本名は大森宏(おおもり ひろし)。
父親は大日本帝国海軍軍人の中佐で、テニアン島に赴任し、テニアン島の戦いで手榴弾で自決
。
死後は特進して大佐になっています。
麿赤兒さんは石川県金沢市で生まれ、父親の死後母親が精神を病んだため、小学5年生の時に奈良県桜井市三輪山麓に住むおじ夫婦に預けられ、以降は奈良県で育ちました。
奈良県に移った頃に肺結核を患い入院しています。
高校は畝傍高校に進学。
畝傍高校は、奈良県橿原市八木町にある男女共学の県立高で、現在の偏差値は69。
中学、高校時代は演劇部に所属し、中学時代は部長を務め、演劇とは何かを学ぶために図書館通いをしたといいます。
当初は中高生向けの演劇をしていましたが、その後はチェーホフの短編などを公演しました。
高校卒業後は、早稲田大学第一文学部哲学科に進学。
大学在学中に劇団に参加。
大学は最初の1年が教養課程ばかりで演劇に関する授業がなかったことから、大学は中退しています。
麿赤兒が俳優になったきっかけは?
麿赤兒さんは小学生の時に肺結核で入院した時、同室の入院患者の影響で、文学、演劇に興味を持ち、中学の時に地方公演に来た劇団の芝居を観たことでさらに興味を持ちました。
中学、高校は演劇部で活動し、大学時代には劇団『ぶどうの会』に研究生として参加しましたが、入団半年で劇団は解散。
その後は研究生だけで劇団を作りましたが、飽きてしまい辞めてしまったそうです。
その頃に明治大学の学生だった、唐十郎さんと出会い刺激を受けたといいます。
高校の先輩に舞踏の稽古を見せてもらったことで、舞踏家の土方巽さんに出会いました。
『何もかもがカルチャー・ショックで、芝居の事ならある程度読めるんですけれども、それ以外の異質な世界でびっくりしましたね。』
引用 https://www.waseda.jp/
舞踏を観たことで、肉体的な表現と芝居への新しい目覚めがあったといい、その後舞踏家の土方巽さんに師事しました。
麿赤兒 デビュー後
1964年6月、21歳の時に唐十郎さんの劇団・状況劇場に参加し、唐十郎さんが提唱する『特権的肉体論』を体現する役者として活動。
1967年公開の映画『荒野のダッチワイフ』で映画初出演。
1970年に劇団を退団し、1972年に独自で舞踏集団・大駱駝艦を旗揚げ、主宰しました。
海外公演も積極的に行い、舞踏を『BUTOH』として広めています。
1991年の大河ドラマ『太平記』でドラマ初出演し、以降はドラマにも出演するようになり、大河ドラマには2014年までで5回出演。
2014年1月のNHKドラマ『花園オールドボーイ』では主演を務めました。
麿赤兒の結婚歴や妻は?
麿赤兒さんの結婚歴は1回。
妻は元舞台女優の桃枝さんという女性で。結婚後は引退して家庭に入っていました。
結婚時期は不明でしたが、1970年に長男が誕生しているので、それ以前で27歳より前に結婚しています。
離婚した時期を不明でした。
息子の大森南朋さんがNHKファミリーヒストリーに出演して際には、父親は家族を顧みず演劇に没頭し、母親も自分を貫く人生をおくり、最初から家庭崩壊に近い家族だったとされ、父親とは離れて暮らし母親と生活していたようです。
離婚後は再婚はしていなません。
麿赤兒の子供は何人?
麿赤兒さんの子供は息子が2人。
1970年9月4日に長男の立嗣(たつし)さん
1972年8月19日に次男の南朋(なお)さん
が誕生しています。
長男の大森立嗣さんは駒澤大学文学部社会学科卒業後、映画監督にになっています。
次男の大森南朋さんは俳優をしています。
息子2人が子供の頃に離婚し、離婚後は母親が引き取って育てました。
月1回、母親の元に養育費を持ってくる麿赤兒さんとの時間が唯一の家族での生活だったといいます。
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