三國連太郎の結婚歴や妻は?子供は何人?高校、大学などの学歴や経歴・生い立ち

静岡県出身の俳優・三國連太郎さん。

生い立ち経歴や高校、大学などの学歴は?

俳優になったきっかけは?

結婚歴や妻は?

子供は何人?

今回は俳優の三國連太郎さんをリサーチしてみました。

三國連太郎の学歴・生い立ち・経歴

名前   三國連太郎
生年月日 1923年1月20日
没年月日 2013年4月14日(90歳没)
出身   静岡県
身長   178cm
血液型  AB型

 

三國連太郎の学歴

高校・・旧制豆陽中学

大学・・大学には進学していません

群馬県太田市で生まれ、生後7ヶ月の時に静岡県賀茂郡松崎町に移りました、

本名は佐藤政雄(さとう まさお)。

父親は電気工事の職人。

母親は伊豆半島の漁村の網元の娘で、16歳で広島・呉の海軍軍人の家に女中奉公に出され、実家に帰ろうとして沼津でたまたま父親と出会い
結婚。

祖父は棺桶作りの職人。

兄弟は弟と妹。

母親は優しい女性でしたが、父親は手が早く、悪ガキだった三國連太郎さんは良く殴られていたといいます。

殴られるのが嫌で縁の下に隠れていたりすると、母親が毛布や食事を持ってきてくれたそうです。

勉強は好きではありませんでしたが、学校にろくに通いことの出来なかった父親の意向で、豆陽中学に入学。

旧制中学で現在の高校にあたり、豆陽中学は現在の下田高校。

下田高校は、静岡県下田市蓮台寺にある男女共学の県立高校。

現在の偏差値は48~60。

中学時代は水泳部、柔道部に所属。

『権力に対する漠然とした恐怖と抵抗感があった』

中学時代には何度も家出をしていました。

家出して朝鮮半島から中国大陸に渡って、駅弁売りなどをしながら生きていたこともあるといいます。

中学は16歳の2年生の時に中退。

学校を辞めると父親に言った時には、男泣きしながら母親が絶叫するほど殴られたといいます。

中学を辞めた後には、大阪で皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就いていました。

三國連太郎 徴兵逃れ

1943年、大阪で働いていた20歳の時、徴兵検査の通知が来て受けると甲種合格。

三國連太郎さんは戦争に行くのが嫌で、貨物列車に潜り込んで逃亡。

徴兵を逃れで牢獄に入れられるよりも、人を殺すのが嫌だったと話しています。

九州に向かいました。

逃亡中に母親に、

『心配しているかもしれませんが、自分は無事です』

との文面の手紙を出したことで居場所がバレ、佐賀県の唐津で特高らしき人に尾行されつれ戻されました。

処罰は受けず、他の人と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に配属。

中国の前線へ送られ、部隊は総勢千数百人いましたが、生きて再び祖国の土を踏めたのは20人から30人にだったといいます。

『中学の同級だった軍医の助言で仮病を使い、陸軍病院に入院しました。それで命が助かったわけです。』

2年半、中国にいて終戦を迎え、敗戦後、収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごし、独身者より結婚している人のほうが早く帰国できると聞き、同じ佐藤姓の女性と1946年4月に偽装結婚し同年6月に帰国しました。

帰国後は様々な職に就いた後、宮崎県の宮崎交通に入社、バスの整備士として2年勤務しました。

三國連太郎が俳優になったきっかけは?

『銀座で職を探して歩いていた復員兵の長身の青年が、松竹のプロデューサーの目にとまり、主演俳優がパージされ出演できなくなった「善魔」(木下恵介監督)の主役にいきなり抜擢』

引用 https://books.bunshun.jp/

三國連太郎さんは1950年に上京し、闇商売を始め、一時は大儲けしましたが廃業。

同年12月に東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝さんにスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入所。

翌年の1951年、映画『善魔』に出演できなくなった、岡田英次さんの代役として抜擢され俳優デビュー。

28歳の時でした。

三國連太郎 俳優デビュー後

デビュー翌年の1952年1月、東宝が三國連太郎さんの映画『戦国無頼』への出演を希望し松竹に出演許可を求めましたが、松竹は三國連太郎さんが演技研究生で松竹社員であることを理由に拒否。

しかし、東宝は松竹の間に正式契約がないことを確認して本人と交渉を進め、マスコミでは三國連太郎さんの松竹・東宝の争奪戦と話題になったといいます。

三國連太郎さんが『戦国無頼』のクランクインに参加したため松竹は同年3月に正式に解雇。

東宝と年間4本の出演契約を結び出演した後、1955年に日活と専属契約を結び、1956年10月の契約ぎれとともにフリーとなりました。

1960年3月に公開された映画『大いなる旅路』で、

第11回ブルーリボン賞・主演男優賞

を受賞。

1988年から映画『釣りバカ日誌』シリーズにスーさん役で2009年まで出演し、1990年には同映画で、

第13回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞

を受賞しました。

2012年4月公開の映画『わが母の記』が遺作となりました。

三國連太郎の結婚歴や妻は?

三國連太郎さんの結婚歴は4回、離婚歴は3回。

最初の結婚は終戦後に収容所に入っていた際に、妻帯者は早く帰国できると聞いたことでおこなった偽装結婚でした。

結婚は1946年4月の23歳の時でした。

妻は同じ佐藤姓の女性。

離婚したのは2年後の1948年。

妻は妊娠中だったといいます。

三國連太郎の2人目の妻は?

離婚後の1949年頃、三國連太郎さんは鳥取県倉吉市で農協に入り、ほどなくして再婚。

妻は土地の資産家の娘。

1950年に単身上京し、スカウトされ俳優に転身後の1952年に離婚してます。

三國連太郎の3人目の妻は?

3度目の結婚は1957年。

結婚時は33歳か34歳。

妻は神楽坂一の売れっ子芸者だった、石原とし子さん。

1952年の映画『戦国無頼』に出会ったといいます。

しかし、結婚5年目の1962年に三國連太郎さんは家族を捨てて、当時19歳だった女優・太地喜和子さんと不倫。

同棲を開始しましたが、数ヶ月で家を出たといいます。

石原とし子さんと離婚したのは1972年。

結婚15年目で、不倫から10年目でした。

三國連太郎の4人目の妻は?

三國連太郎さんの最後の再婚は1976年。

53歳の頃でした。

妻の名前は友子さん。

年齢は26歳年下で、結婚時は27歳ぐらい。

『友子さんと三國さんとは共通の友人だった写真家の故・ケン影岡さん宅で知り合い意気投合。』

三國連太郎さんが糖尿病で入院した際には、毎日のように病室を訪れ看したといい、三國連太郎さんは、

『まるで天使のように見えた』

と語っていたそうです。

それまでは三國連太郎さんは。妻と連れ立って人前に出ることを極端に嫌っていましたが、友子さんだけは例外でだったそうです。

晩年の三國連太郎さんは、

『友子のために長生きしなくては』

と空気のいい沼津に別荘を購入したといいます。

三國連太郎の子供は何人?

三國連太郎さんの子供は2人のようです。

最初の子供は最初の妻との子供で、1948年に妊娠中に離婚しています。

2人目の子供は3人目の妻との間に生まれた、俳優の佐藤浩市さん。

1960年12月10日誕生しました。

三國連太郎さんと佐藤浩市さんは1986年公開の映画『人間の約束』でワンシーンだけ共演。

1996年公開の映画『美味しんぼ』で親子役で共演しました。

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