兵庫県出身のタレント・大村崑さん。
生い立ち、経歴や高校・大学などの学歴は?
芸能界入りのきっかけは?
オロナミンcの看板は何歳の時?
結婚歴や妻は?
子供は何人?
今回はタレントの大村崑さんをリサーチしてみました。
大村崑の学歴・生い立ち・経歴
名前 大村崑
生年月日 1931年11月1日
出身 兵庫県
身長 160cm
血液型 O型
所属 プロジェクト・コア
高校・・第一機械工業学校
大学・・大学には進学していません。
兵庫県神戸市長田区東尻池町出身。
本名は岡村睦治(おかむら むつじ)。
父親は写真店と電気店を経営していました。
弟が1人と妹が2人の4人兄弟の長男。
9歳の時に父親がチフスで他界。
その後は父親の長兄夫婦に引き取られて育ちました。
裕福ではありましたが、伯母はきつい人で『お母さんと呼びなさい』と言われ、イヤだ。お母ちゃんと違う。おばちゃんや』というとゲンコツで殴られたといいます。
高校は神戸市立第一機械工業学校を卒業。
現在の神戸市立科学技術高校。
兵庫県神戸市中央区脇浜町にある男女共学の公立高校。
現在の偏差値は50。
第一機械工業学校に進学したものの、終戦までは造船所で学徒動員だったためほとんど学校に行くことはなかったといいます。
高校卒業後は継父の写真館を手伝ったり、キャバレー『新世紀』でボーイをするなどいろいろなアルバイトをしていました。
大村崑の芸能界入りのきっかけは?
芸能界を目指すきっかけは病気でした。
20歳なる直前に肺結核にかかり、右の肺を切除。
その時に医者から、
『40歳までは生きられないだろう』
と言われ、限られた命ならば死んだ父親が好きだった、喜劇の道に進みたい、司会の勉強もしてみたいと思うようになったといいます。
1年半の療養生活後、キャバレー『新世紀』に復帰し、司会者がギャラか何かでもめていなくなったことで、ボーイとしてだけではなく、司会者もすることになりました。
大村崑のコメディアンとして活躍
1953年に当時関西で有名な司会者だった大久保怜さんを紹介してもらい一番弟子として弟子入り。
歌手の司会者としてドサ回りに行くと、ひなびたところを回ってもサラリーマンの初任給が1万円ぐらいの時代に、1ヶ月回って7万円くらいの収入になったといいます。
1957年に、大阪梅田の映画館『北野劇場』専属コメディアンとして舞台に立ちました。
『ずれ落ちたロイド眼鏡』ととぼけた芸風で黎明期のテレビに進出。
1958年のコメディドラマ『やりくりアパート』の学生役で人気を獲得。
1965年には『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ系)の2代目司会者に抜擢され、司会者としても人気を得しました。
俳優としても活動し、2018年には大河ドラマ『西郷どん』に 西郷龍右衛門 役で、2021年公開の映画『ロボット修理人のAi(愛)』では伝説の老人役で出演しています。
大村崑のオロナミンcの看板は何歳の時?
『僕は元気なんてないから断ったんです。けど、それを遮って“やらせていただきます”と言ったのが女房。オロナミンCは女房に無理やりやらされたんです。』
引用 https://www.jprime.jp/
大村崑さんのオロナミンCのCMが放送開始されたのは1965年。
34歳の頃でした。
同時期から街中に『ソフト帽にずれ落ちた眼鏡姿』でオロナミンCを手にする大村崑さんのホーロー看板が設置されました。
その看板のインパクトは抜群で、オロナミンCは大人から子どもまで知らないものはいない商品となりました。
大村崑の結婚歴や妻は?
大村崑さんが結婚したのは1960年3月。
28歳の時の結婚でした。
妻はシャンソン歌手だった岡村瑤子さん。
年齢は6歳年下。
出会いは結婚の前年の1957年7月。
岡村瑤子さんがレビ番組のオーディションでディレクターを訪問した際、たまたまその場にいた大村崑さんと目が合った事がきっかけで交際がスタート。
交際はマスコミに早くから嗅ぎ付けられ、報道されていたといいます。
マスコミ報道の過熱を回避するために、よみうりテレビに『結婚式のテレビ中継』の企画を打診し、雁之助・小雁兄弟と3組合同による『テレビ結婚式』が放送されました。
大村崑の子供は何人?
大村崑さんの子供は2人、
子供は2人とも息子です。
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