寺尾聰の結婚歴や妻は?子供は何人?高校、大学などの学歴や経歴・生い立ち

神奈川県出身の俳優・寺尾聰さん

生い立ち、経歴や高校、大学などの学歴は?

デビューしたきっかけは?

結婚歴や妻は?

子供は何人?

今回は俳優のの寺尾聰さんをリサーチしてみました。

寺尾聰の学歴・生い立ち・経歴

名前   寺尾聰
生年月日 1947年5月18日
出身   神奈川県
身長   176cm
血液型  A型
所属   寺尾事務所

 

寺尾聰の学歴

中学校・・目黒区立第十中学校

高校・・・法政大学第二高校 和光学園高校

大学・・・大学には進学していません

専門学校・文化学院

神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。

父親は劇団民藝の創設者で、名バイプレーヤーとして活躍した俳優の宇野重吉さん。

兄弟は姉。

中学校は目黒区立第十中学校を卒業。

中学時代は野球部に所属。

4番バッターでした。

高校は法政大学第二高校に進学。

法政大学第二高校は、神奈川県川崎市中原区にある男女共学の私立高校。

現在の偏差値は70。

同校の野球部は1960年の夏の甲子園、1961年の春の甲子園を連覇し野球の強豪校で、寺尾聰さんは1962年に入学し、野球部に入部。

しかし、ケンカなど警察沙汰になったことですぐに退学になり、本格的に野球部での練習に参加することはなかったといいます。

退学後は和光学園高校に入学し直しました。

和光学園高校は、 東京都町田市真光寺町にある男女共学の私立高校。

現在の偏差値は51。

同高校でも生活は落ち着かず、昼食に校外の店から出前を取り寄せるなどしたといい、さらに高校1年生を2度留年し、3年連続で1年生をやりましたが、退学はせず卒業しています。

高校卒業後は、専門学校の文化学院に進学。

東京都墨田区両国にあった専門学校で、2018年に閉校になっています。

在学中にバンド活動を始めましたが、同校は卒業しています。

寺尾聰がデビューしたきっかけは?

寺尾聰さんの父親は名バイプレーヤーだった宇野重吉さんで、この環境に反発し音楽を始めたといいます。

文化学院在学中の1965年に、フォーク・グループ『ザ・サベージ』に加入し、ベース、ボーカルを担当。

1966年7月に『いつまでもいつまでも』でデビュー。

B面の『恋の散歩道』は寺尾聰さんの作詞・作曲で、寺尾聰さん自身がソロで歌っています。

寺尾聰 ルビーの指輪が大ヒット

1966年10月にリリースしたセカンドシングル『この手のひらに愛を』は、1番を寺尾聰さんが歌い、2番をリーダーでギター、ボーカルの奥島吉雄さんが歌い大ヒットしましたが、寺尾聰さんはすぐにグループを脱退。

1968年からはグループ・サウンズのバンド『ザ・ホワイト・キックス』に参加しましたが、シングル1枚で解散。

同年2月公開の映画『黒部の太陽』で俳優デビューしました。

石原軍団入りしましたが、きっかけは父親の宇野重吉さんでした。

寺尾聰さんは父親の主催する『劇団民藝』の研修生としての入団を希望しましたが、宇野重吉さんは、

『たとえ研修生扱いでもマスコミは「親の七光り」として見るだろう』

と懇意だった石原裕次郎さんを紹介したそうです。

その後は、、石原プロモーション制作のアクションドラマで活躍。

1970年7月に『ママに内緒の子守唄』でソロ歌手デビューし、1980年8月にリリースした3作目のシングル『SHADOW CITY』がヨコハマタイヤ『ASPEC』のCMソングに起用され、オリコンチャート3位にランクイン。

翌年の1981年2月の5作目の自身が作曲したシングル『ルビーの指環』がオリコンチャート1位になり、TBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』では12週連続1位という同番組の最長記録を樹立しました。

同年の第23回日本レコード大賞の大賞・金賞・作曲賞を受賞し、第32回NHK紅白歌合戦に初出場。

紅白歌合戦には、2007年までに2回出場しています。

俳優としても2000年公開の主演映画『雨あがる』で、

第24回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞

2002年公開の映画『半落ち』でも、

第28回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞

を受賞しました。

寺尾聰の結婚歴や妻は?

寺尾聰さんの結婚歴や2回。

最初の結婚は973年6月で、25歳の時でした。

妻は女優の范文雀(はん ぶんじゃく)さん。

1948年4月15日生まれで、年齢は1歳年下。

范文雀さんは台湾国籍でしたが、両親も日本育ちで中国語はできませんでした。

東京都中野区生まれ、広島県広島市育ちで、大学在学中の1968年にテレビドラマ『特別機動捜査隊』で女優デビュー。

1970年にTBS系の『サインはV』のジュン・サンダース 役で注目され、同年のTBS系ドラマ『アテンションプリーズ』の田村早苗 役で人気は不動のものとなりました。

寺尾聰さんと范文雀さんの馴れ初めは、1971年の日本テレビ系ドラマ『2丁目3番地』での共演。

結婚後、范文雀さんは一時芸能界を引退しましたが、結婚の翌年の1974年に離婚。

結婚生活は1年5ヶ月でした。

離婚後、范文雀さんは芸能界に復帰。

1998年頃、腋のリンパ節から悪性リンパ腫との診断され、2002年11月5日に54歳で他界しました。

寺尾聰の再婚した妻は?

寺尾聰さんが再婚したのは1981年、34歳でした。

再婚相手はモデル、女優だった星野真弓さん

結婚時は19歳だったそうで、年齢差は15歳。

寺尾聰さんが出演していた刑事ドラマ『西部警察』に星野真弓さんがゲスト出演したことが馴れ初めだったといわれています。

星野真弓さんは結婚後は芸能界を引退しています。

寺尾聰の子供は何人?

寺尾聰さんの子供は3人のようです。

35歳の時に生まれた娘がいて、他には息子と娘がいるとの情報がありましたが、生まれた順番や、時期は不明でした。

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