ハードボイルド、歴史小説で人気の小説家・北方謙三さん。
小説家になったきっかけは学生時代に結核にかかったことのようです。
結婚や妻、子供は?
今回は小説家の北方謙三さんをリサーチしてみました。
北方謙三の学歴・経歴
名前 北方謙三
生年月日 1947年10月26日
出身 佐賀県唐津市
身長 174cm
血液型 A型
父親は外国航路の船長だったため、会えるのは船が帰港する時だけででした。
1年の内10ヶ月は家にいなかったため、父親の船が横浜港に帰港すると、その都度、家族で神奈川県横浜市に会いに行き、一緒に過ごしていたといいます。
小学校は唐津市の小学校に入学しましたが、小学5年生の時に神奈川県川崎市中原区に引っ越し、川崎市立中原小学校を卒業しました。
中学、高校は東京都港区芝公園にある私立の男子校の芝中学校、芝高校を卒業。
芝中学校の偏差値は65、完全中高一貫制のため高校は内部進学しています。
中学校、高校時代は柔道部に所属し、高校2年生の時には二段を取得しました。
大学進学に向けて勉強していましたが、高校3年生の時に肺結核に感染。
健康診断書に「就学不可」はと書かれ大学受験をできなくなったといいます。
治療をしながら浪人生活をしていましたが、半年経っても快復しなかったため、自身で健康診断書を「異常なし」と書き換えて受験し、中央大学・法学部に入学。
大学在学中に小説を書き始め、大学在学中に小説家デビューしました。
結核がきっかけ小説家デビュー
北方さんが小説を書き始めたのは結核に患い、健康診断書を誤魔化してなんとか大学に入ったものの、就職も難しいといわれたことがきっかけだったといいます。
『「結核文学」という言葉もあるくらい、文学というものは死と隣接した世界で成立している。だったら「自分は文学の世界ならエリートではないか」と思ったりもしました。』
大学2年生の頃から小説を書き始めたといいます。
結核は3年半の化学療法で治ったそうです。
大学在学中の1970年に同人誌で純文学作品『明るい街へ』を発表。
すると、その作品が文芸誌「新潮」の編集者の目に留まり、1970年3月号に掲載。
学生作家としてデビューしました。
下積みは10年以上
デビュー時は「新潮」の編集長には「大江健三郎以来の学生作家だ」と持ち上げられ、自身もその気になって天才だと思ったといいます。
しかし、その後は低迷。
作品を書いては持ち込みましたが中々掲載はされず、持込仲間には立松和平さんや中上健次さんがいて、毎晩のように飲んで議論していましたが、北方さんの掲載率は3人の中でも低く、10年で100本書いて雑誌に掲載されたのは3本のみでした。
下積み時代は半月は肉体労働をやって、残りの半月で書くという生活を送っていたといいます。
路線を変更して人気作家に
集英社の若手編集者に純文学からの保線の転換を勧められ、1981年に長編ハードボイルド作品『弔鐘はるかなり』を発表。
実質的には新人だった北方さん2度目のデビューで、初出版がいきなり長編というの異例だったといいます。
翌年の1982年4月には『逃がれの街』、10月に『眠りなき夜』を発表すると同作で、第4回吉川英治文学新人賞、第1回日本冒険小説協会大賞を受賞。
1983年には『逃れの街』が水谷豊さん主演で映画化されるなど一躍人気作家になりました。
その後も1985年『友よ、静かに瞑れ』、1987年『黒いドレスの女』など次々と映画化さました。
1989年からは歴史小説を手掛け、同年に初の歴史小説『武王の門』発表。
1996年には全13巻の大長編『三国志』、1999年には『水滸伝』が『小説すばる』で連載開始されました。
妻や子供
北方さんが結婚下の26歳の時にでした。
妻は高校の教師をしていた女性。
『女房が教師で月給をもらっていたから「これでいけるな」と思ったのですが、結婚した直後に退職した。』
当時はまだ作家として売れる前でしたが、妻は結婚すると「専業主婦になります」と教師を退職し焦ったといいます。
そのため売れるまでは、毎月食べられるだけのお金を渡せてはいませんでしたが、文句を言われたことは一度もなかったそうです。
子供は娘が2人で、長女は空手、次女は剣道をやっていたと話しています。
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