浜村淳の妻や子供は?ラジオパーソナリティになったきっかけや学歴・経歴

関西でラジオパーソナリティとして活躍する浜村淳さん。
ラジオパーソナリティになったきっかけは?
結婚歴や妻、子供は?

今回はラジオパーソナリティの浜村淳さんをリサーチしてみました。

浜村淳の学歴・経歴

名前   浜村淳
生年月日 1935年1月10日
出身   京都府京都市
身長   165cm
血液型  A型
所属   一丁目一番地

本名は塩濱 眞(しおはま まこと)。2歳で伯母夫婦に養子にだされたため、「塩濱」の名字は養父母の名字です。
養子だということは知らずに育ち、両親が養父母だと知ったのは大学の入学手続きのために戸籍謄本を取り寄せたことがきっかけだったといいます。

小学校は京都市立鷹峯小学校、中学校は京都市立旭丘中学校を失業。
養父母にはかわいがられ、よく映画や芝居に連れていってもらていたそうです。

高校は京都府京都市北区大将軍坂田町にある府立高校の山城高校(偏差値62~64)を卒業。

高校卒業後は同志社大学・文学部に進学。
大学時代は放送研究会に入り制作を担当。
文学部社会学科で新聞学を専攻を新聞記者になりたいと思っていました。
大学卒業後は大阪市内の靴下メーカーに就職しました。

大学時代に司会業に出会う

浜村淳さんが初めて司会したのは、同志社大学の放送研究会時代の同立戦前夜祭でした。

当時の前夜祭は同志社大学と立命館大学の学生の対抗意識の強さから一方の大学の司会者が登場するたびにもう一方の大学の学生から野次ガ飛んでいたといいます。

同志社大学からは放送研究会の女子学生が司会を務める予定でしたが、現場の雰囲気に怖気づいたため、音響フタッフだった浜村さん急遽司会を担当。
3000人の前で司会を務め、この司会が浜村さんの人生を変えたといいます。

大学在学中にジャズ喫茶で司会のアルバイトを始めるとジャズと映画の解説が受け、一時はタレントを目指して上京しましたが、養父母に反対され京都に戻り、大学卒業後は靴下メーカー就職しました。

芸能界入りのきっかけ

靴下メーカーでは宣伝部に配属され、会社がスポンサーを務めていたラジオ番組の脚本を担当。
会社での仕事の一貫したが、番組の最後に放送されるクレジット用の芸名を付けることになり、この時に「浜村淳」と命名されました。
しかし、会社は半年で退職。

その後、養父母に内緒で司会業を再開し、京都市内のクラブ・ベラミのアルバイト司会者をしていた時に、渡辺プロダクションの創業者の渡辺晋さんに声をかけられ再び上京し、渡辺プロダクションに所属してタレント活動を始めました。

ラジオ「ありがとう浜村淳です」を担当

東京で活動をしていましたが、養父の体調が悪くなったことを機に活動拠点を関西に移し、渡辺プロダクションを辞め、一時は吉本興業に所属していました。

吉本時代は吉本新喜劇などにも出演していましたが、その後はラジオ番組や映画の評論に活動の場を広げ、1974年4月、39歳の時に『ありがとう浜村淳です』(MBSラジオ)のラジオパーソナリティに就任。

同番組は平日朝2時間の生放送番組で、1977年2月からは同局で『ありがとう浜村淳です土曜日です』が放送開始され、週6日冠番組が放送されていました。
『ありがとう浜村淳です』は50年放送されましたが、2024年3月に放送が終了。
翌4月からは土曜日のみの週1回放送になりました。

結婚や妻、子供

浜村淳さんは1965年、30歳の時に結婚。

『8歳下の妻とは、ニ度、プロポーズをして結ばれた。とても明るい性格の妻のおかげで、大変なことがあっても救われる場面が多いという。』

妻は8歳年下で元タレントの女性で、夫婦共通の趣味は映画だといいます。

子供は息子で、大阪のテレビ局「毎日放送(MBS)」に勤務しているようです。

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