長山藍子は静岡県育ち
生い立ち経歴や高校などの学歴は?
女優になったきっかけは?
結婚歴や夫は?
子供はいる?
今回は女優の長山藍子さんをリサーチしてみました。
長山藍子の学歴・生い立ち・経歴
名前 長山藍子
生年月日 1941年6月21日
出身 静岡県
身長 159cm
小学校・成蹊小学校
中学校・成蹊中学校
高校・三島北高校
大学・進学していません
父親はは同盟通信社記者で東京タイムズ創立に参加。
母親は雑誌・日本評論の記者。
父親が記者として赴任していた中国・内蒙古フフホト市生まれ。
終戦の直前にソ連が侵攻してきたため通信社疎開家族団の一員として、母と弟とともに北朝鮮に向かいました。
より安全なところへ女性と子供だけ疎開させようという配慮だったといいます。
4歳のとき現地で終戦を迎え、父親とは離れてしまい、母、弟とともに命からがら引き揚げて東京に住みました。
小学4年生の時に試験を受けて成蹊小学校に編入し、中学校も成蹊中学校に入学。
中学では演劇部に所属。
中学2年生の時に父親が亡くなり、東京から静岡に引越し、高校は三島北高校に進学しました。
三島北高校は静岡県三島市文教町にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は63。
高校でも演劇部に所属していました。
高校卒業後は、俳優座の養成所に入所しました。
長山藍子が女優になったきっかけは?
『芝居好きの父親に連れられ歌舞伎や新国劇を見るうちに、「自分も舞台に立ちたくなった」』
引用 http://www.teinenjidai.com/
戦争が終わり日本に引き揚げ後、よく父親に芝居を見に連れていってもらい興味を持ち、中学、高校では演劇部に在籍。
静岡の高校在学中に成蹊学園時代の恩師が東京から連絡をくれ、
『もし大学に行くかどうか迷っているなら、俳優座に俳優養成所がありますよ』
と教えてくれたので、高校2年生の春休みにふらっと受験しに行ってみたそうです。
見事に合格し、高校卒業後に俳優座の養成所に12期生として入所。
1963年に卒業し、同年に舞台『オッペケペ』でデビュー。
同舞台では石井ふく子さんから『お座敷太鼓』の指導を受けたそうです。
長山藍子 女優デビュー後
1964年4月に放送されたTBS系ドラマ『愛と死をみつめて』でドラマデビュー。
1965年6月から放送されたTBS系の石井ふく子プロデュースドラマ『女と味噌汁』に出演。
以降は石井ふく子プロデュース作品に数多く出演しています。
1990年から放送されたTBS系の『渡る世間は鬼ばかり』の野田弥生役は広く知られ。20年以上同役を演じました。
1968年10月から放送されたフジテレビ系ドラマ『男はつらいよ』ではさくら役を演じ、映画の第5作目の『男はつらいよ 望郷篇』ではヒロインを務めました。
1979年から1981年までは『クイズダービー』に5代目2枠レギュラー解答者としても出演しました。
長山藍子の結婚や夫、子供は?
長山藍子さんが結婚したのは1997年6月。
56歳の時でした。
夫は俳優の武正忠明さん。
年齢は15歳年下で結婚時は40歳でした。
馴れ初めは舞台での共演。
1993年の舞台『華やかな女』で初めて共演。
この時は挨拶をするだけの関係でした。
その後、長山藍子さんが武正忠明さんの舞台を観に行き、その後一緒にお酒を飲んだことで意気投合し交際がスタート。
武正忠明さんのプロポーズの言葉は『一緒にこれから暮らしていきたいね』だったそうです。
長山藍子さんに子供はいません。
長山藍子と坂上忍の関係は?
長山藍子と検索すると『坂上忍』の関連ワードが出てきます。
調べてみると長山藍子さんは坂上忍さんの子役時代の恩人で感謝されているようです。
2015年のバラエティ番組で坂上忍さんは会いたかった人に長山藍子さんを挙げました。
坂上忍さんの子役時代は、スタッフなどが子役に厳しく稽古の時に台本を持つこと許されず、坂上忍さんはセリフを丸暗記して稽古に参加していたそうです。
さらに現場にはマネージャーも親の同伴していませんでした。
ある現場で連絡ミスから2時間遅刻をしてしまった坂上忍さんに共演者から冷たい視線が向けられる中、長山藍子さんだけは優しく声をかけてくれたそうです。
当時、坂上忍さんは両親から交通費と100円のお小遣いのみしか渡されていなかったため、現場の夕食が出前になれば注文は出来ずにいましたが、そんな坂上忍さんに気付いた長山藍子さんは食事を分けてくれたといいます。
坂上忍さんはとても感謝していますが、その時のことを長山藍子さんはまったく覚えていないそうです。
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