秋元康と妻の結婚の馴れ初めや子供は?デビューや作詞家になったきっかけ。学歴・経歴

放送作歌としてデビューし、作詞家として活躍する秋元康さんの学歴や経歴は?
放送作家デビューや作詞家になったきっかけは?
妻の高井麻巳子さんとの結婚の馴れ初めは

今回は作詞家の秋元康さんをリサーチしてみました。

秋元康の学歴・経歴

名前   秋元康
生年月日 1958年5月2日
出身   東京都目黒区大橋
身長   167cm
血液型  O型
所属   株式会社秋元康事務所

父親、母親、9歳年下の弟の4人家族。父親はサラリーマンでした。

小学校目黒区の小学校に入学しましたが、小児喘息だったことから、2年生の頃に「空気のいい」保谷市(現在の西東京市)に移り、保谷市立中原小学校に転校し卒業しました。

『東大から大蔵省(現:財務省)に入りたいと思っていました。』

よく勉強する子供で、中学受験のために塾にも通い、開成中学、開成高校と進み、東京大学に行こうと思っていたといいます。

塾にでは「絶対に受かる」と言われ、模擬試験も良い成績でしたが結果は不合格でした。

『受験に落ちたことがすごくショックでした。世の中予定通りいかないというか、運というものがすごく大きいんだなと思いましたね。』

受験に失敗したため、中学校は公立の保谷市立ひばりが丘中学校に進学。中学時代には

『最終的に東大に行けばいい』

と思いあまり勉強はしていなかったといいます。

高校は中央大学附属高校に進学。
東京都小金井市貫井北町にある男女共学の私立高校で、現在の偏差値は71。2001年までは男子校でした。
学校が指定した制服は存在せず、「なんちゃって制服」を着用する生徒と、私服の生徒がほぼ半々だといいます。

高校2年生の時に東大を目指して勉強を始めましたが、同時期に放送作家としてもデビュー。

東大受験はかなわず、大学は内部進学で中央大学・文学部に入学。

『5~6年は間違いなく行ってると思います。籍だけはあるという感じでしたね。その途中でどうしてもテレビの原稿の締切と学校のレポートの締切が重なって何度も呼び出されて「どうするんだ」と言われて、もうその段階で中退届けを出そうと思って大学を辞めました。』

仕事に没頭し、最終的に大学は中退しています。

秋元康が放送作家デビューしたきっかけ

高校2年で東大の受験勉強を始め、合間にニッポン放送の『せんだみつおの足かけ二日大進撃!』を聴き、自分でも書けそうな気がして、せんだみつおさんを主人公にした『平家物語』のパロディを書き、募集されていたわけでもありませんでしたが原稿を送ったところ、ニッポン放送制作部副部長だった亀渕昭信さんと、大橋巨泉事務所の放送作家グループに所属していた奥山侊伸さんの目に留まり、「遊びにおいで」と言われ、ニッポン放送に出入りするようになりました。

出入りしているうちに奥山さんの弟子になり、大橋巨泉事務所に所属。高校2年生で放送作家デビューしました。

秋元康が作詞家になったきっかけ

大学入学後もアルバイトのつもりで、テレビ番組でも放送作家をしていましたが、大学に行ってもずっと原稿を書いていたといい、後に大学は中退。
この頃には会社員の約4倍近い収入があったといいます。

作詞を始めたのは亀渕昭信さんに、ニッポン放送の子会社だった、パシフィック音楽出版(後のフジパシフィックミュージック)の朝妻一郎さんを紹介されたことがきっかけでした。
1981年にフジテレビ系アニメ『とんでも戦士ムテキング』の挿入歌「タコローダンシング」で作詞家デビュー。
初めてアーティストに提供した作品は、1981年10月発売の「アルフィー」のシングル『通り雨』で、最初のヒット曲は1982年10月の稲垣潤一さんの『ドラマティック・レイン』だったといいます。

おニャン子クラブ、とんねるずのブレーン

とんねるずのブレーンを務めた秋元さんがとんねるずと出会ったのは1982年頃でした。

『日本テレビの「モーニングサラダ」という番組の構成を担当していたんですが、先輩の放送作家が笑いを入れようと。それで「今『お笑いスター誕生』で勝ち抜いている“とんねるず”っていうのが面白そうだから会ってこい」と言われて、日本テレビのリハーサル室にとんねるずの2人を呼んでネタを見せてもらったら、すごく面白かったんですね。』

その後は一緒に飲みに行ったり遊ぶようになり、1983年から放送された『オールナイトフジ』では秋元さんは構成のひとりとして番組に参加し、とんねるずはレギュラーとして出演。
女子大生をメインとした『オールナイトフジ』の「女子高生スペシャル」の企画が盛り上がったことから、

『じゃあ夕方に番組をやろう』

と1985年から『夕やけニャンニャン』が放送開始。番組の「アイドルを探せ」のコーナーでオーディションに合格したメンバーが『おニャン子クラブ』としてデビュー。
同年7月に『セーラー服を脱がさないで』で歌手デビューしオリコンチャート5位にランクイン。
1986年2月の枚目のシングル『じゃあね』は1位となり、以降、6枚連続で1位を獲得しました。

1985年9月にはとんねるずの5枚目のシングル『雨の西麻布』も5位入るヒットとなり、以降も秋元さんが作詞を担当し、トップテンに入るヒット曲を連発。1992年1月の18枚目のシングル『ガラガラヘビがやってくる』が初の1位となり、ミリオンセラーを記録しました。

1986年から『とんねるずのみなさんのおかげです。』、1991年から『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の冠番組が始まると、秋元さんは監修、構成を担当。

2005年からは秋葉原で女性アイドルグループAKB48を立ち上げ、総合プロデューサーに就任し、大ヒットさせました。

秋元康と妻の馴れ初めは子供

秋元康さんが結婚したのは1988年5月、30歳の時でした。
妻は8歳年下で、おニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子さんで、馴れ初めはおニャン子クラブの共同作業者と出演者として出会ったことでした。

高井さんは福井県小浜市出身で、1985年に福井県立若狭高校を卒業後、美術大学への進学を目指して予備校に入学するために上京。
同年4月に原宿で『夕やけニャンニャン』コーナー「アイドルを探せ!」出場者としてスカウトされ、同コーナーで『青い珊瑚礁』を歌い合格。
会員番号16番として『おニャン子クラブ』に加入しました。

秋元さんと高井さんの交際は、高井さんの積極的なアプローチでスタートしたといいます。
同じおニャン子クラブのメンバーだった国生さゆりさんは、

『先生、あたし、秋元さんがいないと生きていけないから一緒にニューヨークに連れてって』

と高井さんが言って、結婚したと話しています。

結婚と同時に夫婦でニューヨークに渡り、1年半生活していました。

子供は娘が1人で、結婚13年目の2001年3月に誕生しました。

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