有馬稲子の結婚歴や夫は?子供は?老人ホームや経歴・学歴

大阪出身の有馬稲子さん。

経歴や学歴は?

結婚歴や夫は?

子供はいる?

現在は老人ホーム入居?

今回は女優の有馬稲子さんをリサーチしてみました。

有馬稲子の学歴・経歴

名前   有馬稲子
生年月日 1932年4月3日
出身   大阪府池田市
身長   158cm
所属   ホリプロ

小学校・釜山第一小学校

中学校、高校・釜山高等女学校 → 府立夕陽ケ丘高等女学校

大学・進学していません

本名は中西 盛子(なかにし みつこ)

大阪府池田市で生まれますが、父親が組合運動を熱心にやっていて社会主義者として警察ににらまれる生活だったことから、4歳の時に釜山に住む叔母の養女となりました。

養母の中西かねさんは、1916年から1926年にかけて『有馬稲子』の芸名で宝塚歌劇団4期生として在団していた経歴があり、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていました。

養父母の家はの家は庭用品の問屋を経営し、商工会議所の議長などもやっていいて、裕福で何不自由のない生活を送っていたといいます。

しかし、9歳の時に養父が他界。

その後は、養母が日本舞踊を教えて生活をしていました。

有馬稲子は釜山公立高等女学校に入学しますが、学徒勤労動員で授業よりは軍服のボタン付け作業ばかりだったといいます。

13歳の時に、養母が軍隊の慰問に出掛けることになり、養母の妹の家に預けられ、そこで終戦を迎えました。

終戦後は養母と引き揚げ船で下関に帰国。

小倉で1ヶ月生活した後、大阪で実の父親にも再会しましたが、有馬稲子さん父親という意識はなく『おじさん』と呼んでいたそうです。

父親は暴力を振るう人物で、何かというと殴られたといいます。

『我が親ながら全然尊敬できませんでしたね』

引用 https://post.tv-asahi.co.jp/

大阪では1945年秋に府立夕陽ケ丘高等女学校に編入。

府立夕陽ケ丘高等女学校は現在の大阪府立夕陽丘高等学校。

現在は男女共学の高校で、偏差値は60の進学校です。

高校ではバレーボール部に入部していました。

有馬稲子 宝塚歌劇団に入団

有馬稲子さんが高校時代に友人の勧めもあり宝塚音楽学校を受験。

当時、有馬稲子さんは駅でよく美しいポスターを見掛けるぐらいで、宝塚への知識はまったくなかったそうです。

受験したのは芝居が好きで学芸会で主役をやったりしていたことと、『父親が暴力を振るう家から抜け出せる手がかりになるのでは。』との思いもあったといいます。

養母は宝塚歌劇団にいたことは入学前は知らず、合格し宝塚の入学式に向かう電車の中で本人から聞いたそうです。

1949年、17歳で宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団に入団。

二代目有馬稲子を襲名しました。

宝塚入団時の成績は63人中9位。

入団後は主演娘役として活躍しました。

19歳の時には宝塚に借金をして、養母とふたりで暮らす一軒家を建てました。

有馬稲子さんの宝塚入学を機に、家を出て養母と親戚の屋根裏部屋に住み、そこから宝塚に通っていましたが、日本舞踊の先生の養母が踊りを教える場所がなかったため、踊りを教える場所がある家を親孝行で建てたそうです。

入団1年目に映画に出演したことと、自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、1953年に宝塚歌劇団を退団しました。

当時、有馬稲子さんは21歳でした。

有馬稲子 映画の世界で活躍

1953年に宝塚歌劇団退団後は、東宝の専属女優となり女優として活動しました。

1954年には岸惠子さん、久我美子さんらと共に映画製作プロダクション「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。

自ら出演作を決めたりする活発な活動は「ゴテネコ」とも揶揄されたといいます。

1955年に松竹へ移籍。

同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子さんと共に二枚看板として大活躍しました。

1965年、負債にり「文芸プロダクションにんじんくらぶ」は解散。

解散後は劇団民藝に所属。

舞台女優として活躍し、代表作の舞台『はなれ瞽女おりん』は上演回数684回にのぼります。

劇団民藝を退団後は主に舞台とテレビドラマを中心に活躍しました。

有馬稲子の結婚歴と夫は?

有馬稲子さんの結婚歴は2回。

最初の結婚は1961年11月。

29歳の時でした。

夫は俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)さん。

萬屋錦之介さんは有馬稲子さんと同じ年齢で、元歌舞伎役者で、映画界に転向し時代劇でトップスターとして活躍した俳優です。

馴れ初め・出会いは雑誌での対談。

1958年に有馬稲子さんが持っていた雑誌の対談ページのゲストに萬屋錦之介さんが訪れたことがきっかけ出会いました。

雑誌の対談で意気投合し、翌年の映画で共演したことで交際がスタートしたそうです。

結婚式は日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい、当時としては破格の豪華結婚式だったといいます。

しかし、1965年7月に離婚。

結婚生活は約3年7か月でした。

離婚は所属いていた映画会社が発表し、離婚の理由について、

『有馬が今後も芸の道を進むことを強く希望し、家庭の主婦の務めができなくなるため』

としました。

有馬稲子さんが33歳の時の離婚でした。

有馬稲子の再婚相手

有馬稲子さんが再婚したのは1969年。

37歳の時でした。

再婚相手は実業家の河村三郎さん。

山口県出身で不動産会社を経営していました。

出会ったのは有馬稲子さんが劇団に所属していた時だったようです。

離婚したのは1983年。

有馬稲子さんが51歳の頃でした。

有馬稲子の子供は?

有馬稲子さんに子供はいません。

2度の結婚で子供に恵まれなかったようで、子供は欲しかったと語っています。

『子供が欲しかった。それが本当に残念で』

引用 https://www.daily.co.jp/

離婚をして1人になった時は『いいな』と思ったそうですが、後に寂しさを感じるようになったと話しています。

有馬稲子は現在、老人ホームに入居

有馬稲子さんは現在、老人ホーム(中高年向けの分譲マンション)に住んでいます。

ケア付マンションやケアホームと言えわれいる物件のようです。

現在のマンションに自宅から引越したのは2007年。

マンションに入居する前は1人暮らしで、寂しさと不安もあったそうですが、引っ越してからは孤独や不安はなくなったそうです。

有馬稲子さんの物件は420世帯、500人くらいの人が住んでいるそうで、ロビーでもエレベーターでもひとがいるといいます。

愛好会のようなサークルがたくさんあり、有馬稲子さんはガーデニングの会をやっているそうです。

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